はじめに
2025年9月、三井物産株式会社が「人的資本レポート 2025」を発行しました 。本コラムでは、人的資本経営のプロフェッショナルの視点から、同レポートの特に優れた点を3つのポイントとして整理し、解説します。
本レポートの評価の観点
人的資本レポートを評価する上で、私たちは主に2つの市場からの視点を重視しています。それは、「資本市場(投資家・株主)」と「労働市場(従業員・候補者)」です。
- 資本市場の視点
投資家は、人的資本が将来の企業価値を創造し続けるエンジンであるかを見極めようとしています。そのため、経営戦略と人材戦略がいかに連動し、持続的な価値創造に繋がるかという「戦略性」と「持続性」が厳しく評価されます。 - 労働市場の視点
従業員や候補者は、その企業が自身にとって働きがいがあり、信頼できる場所かを評価します。企業の「魅力」と「信頼性」を示す、成長機会の提供、公正な評価制度、心理的安全性の高い組織文化などが重要な判断材料となります。
本コラムでは、これら両市場の期待に応え、ステークホルダーとの建設的な対話に繋がるという観点から、三井物産のレポートを分析していきます。
ポイント1:人材版「価値創造プロセス」の精緻な可視化
資本市場が最も重視する点の一つに、人材への投資(インプット)が、いかにして企業価値の向上(アウトカム)に繋がるのか、という論理的な説明責任が挙げられます。
本レポートでは、「人的資本投資と企業価値向上との相関」と題した図表 が、この問いに対する同社の明確な回答を示していると考えられます。

この図表は、以下のような価値創造の連鎖をロジカルに可視化しています。
- 人材戦略
「強い『個』の育成」や「インクルージョン」といった戦略が起点となる。 - 人的資本投資
戦略に基づき、「事業をリードする人材育成への投資」や「多様な人材の採用への投資」などを実行。 - インパクト(アウトプット)
投資の結果、「社員エンゲージメントの向上」や「イノベーション創出力の強化」などがもたらされる。 - 創出される価値
投資によるインパクトが「産業横断的な機能発揮」や「生産性の向上」といった具体的な事業価値に転換される。 - 企業価値向上(アウトカム)
最終的に、経営資本の有効活用、三井物産ならではのビジネスモデルの実践を通じて、「社会的価値」と「経済的価値」の創出、すなわち企業価値の向上に結実する、という流れ。
さらに、このプロセスを具現化する仕組みとして、「持続的な価値創造を実現するタレントマネジメント」の図 が挙げられます。ここでは、グローバルなタレントマネジメントシステム「Bloom」 を活用し、社員のスキルやキャリア志向をデータとして活用しながら、「戦略的適材配置と自律的キャリア形成を両立する『場』」 を提供することが示されています 。

これらの図表は、人材戦略が単なる施策の寄せ集めではなく、経営戦略と連動し、企業価値向上という最終ゴールに向けて設計されたものであることを投資家に力強く示していると評価できます。
ポイント2:戦略実行を担保する「ガバナンス」と「リスク管理」の具体性
人的資本戦略の「戦略性」を語るレポートは増えていますが、その実行をいかに担保しているか、という「ガバナンス」と「リスク管理」の側面まで具体的に開示できているかが、レポートの信頼性を左右します。
本レポートは、この点が非常に具体的に示されています。
実効性の高いガバナンス体制
「人」に関する議論が、経営の中枢で実質的に行われていることを示す仕組みが開示されています。
- 経営会議との連動
CHRO(最高人事責任者)からのメッセージでは、社長や各事業本部長が参加する「HR Strategy Meeting(HRSM)」を別途開催していると言及されています。ここでは、重要ポジションの後継者育成計画(サクセッションプラン)やD&Iの推進といった重要テーマが議論されており 、経営戦略と人材戦略が最高レベルで統合されていることが窺えます。(p22) - 取締役会への接続
人的資本に関する重要事項は取締役会にも付議・報告され、取締役会による監督が図られる体制が明記されています。(p55) - 経営陣への動機づけ
社員エンゲージメントサーベイ(MES)の結果が、取締役(社外除く)の報酬評価指標の一つとされている点 は、人的資本経営の実行に対する経営陣のコミットメントを担保する強力な仕組みであると言えます。(p21)
明確なリスク認識と対応策
「人的資本の制約に関するリスク」 として、事業継続に関わる人材リスクを明確に特定しています。(p55)
- リスクの特定
「業務承継に関するリスク」「報酬の公平・公正性に関するリスク」「差別またはハラスメントに関するリスク」など、具体的なリスクタイプが定義されています。 - 具体的な対応策
例えば「業務承継に関するリスク」に対しては、HRSMでの後継者育成計画の年1回の確認や、キャリア採用の積極的活用を、「報酬の公平・公正性に関するリスク」に対しては、評価フィードバックの適切性を確認するサーベイの実施等を対応策として挙げています。
このように、戦略の実行を支える監督・推進体制と、持続可能性を脅かすリスクへの対応策を具体的に示すことは、資本市場の参加者に対し、同社の人的資本経営の「本気度」と「レジリエンス(強靭性)」を伝える上で極めて重要です。
ポイント3:豊富なデータ開示とISO30414による「透明性」の担保
人的資本経営の「戦略性」や「ガバナンス」を語る上で、その主張を裏付ける客観的なデータ、すなわち「指標と目標」の開示が不可欠です。本レポートは、データの網羅性と信頼性の担保において、非常に高い水準にあると考えられます。
5カ年データとISO30414に準拠した網羅的開示
レポートの後半(p56-71)は「Data Book」として、人的資本に関する膨大な定量データがまとめられています。
- 時系列での開示
「5年データ」として、セグメント別従業員数、平均給与、男女間賃金格差、女性管理職比率、離職率、研修時間といった主要指標が時系列で開示されており、トレンドや施策の進捗を客観的に追跡することが可能です。 - 網羅性の担保
p71には「ISO30414各指標の当社開示内容一覧」が掲載されており 、「倫理とコンプライアンス」から「スキルと能力」「労働力」に至るまで、国際的な開示ガイドラインであるISO30414に沿って網羅的に情報が開示されていることが一目でわかります。

第三者機関によるISO30414適合証明の取得
さらに、これらのデータの信頼性を決定づけるものとして、p72に「ISO 30414 適合証明書」が掲載されています。
これは、独立した第三者機関(HCプロデュース社)が、三井物産の2023年度のデータ、システム、および戦略に関する記述を審査した結果、国際規格であるISO30414に適合していることを証明するものです。
戦略を語るだけでなく、その土台となるデータマネジメント体制そのものについて外部認証を取得しているという事実は、投資家や候補者に対し、同社の情報開示の「透明性」と「信頼性」を極めて強力に示すものと言えるでしょう。
まとめ
三井物産の「人的資本レポート 2025」は、両市場の視点、特に資本市場の厳しい評価に応える先進的なレポートの一つと考えられます。優れたポイントとして、以下が挙げられます。
- 人材版「価値創造プロセス」の精緻な可視化
- 戦略実行を担保する実効性の高い「ガバナンスとリスク管理体制」
- 豊富なデータ開示とISO30414による「透明性」の担保
貴社の人的資本開示は、このような説得力あるストーリーを描き、ステークホルダーに貴社の魅力を訴求できていますでしょうか。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の課題解決をサポートします。もし、自社の価値創造ストーリーの構築や、戦略的な情報開示に課題をお感じでしたら、ぜひ一度、お気軽にお問い合わせください。




