「その施策、投資対効果は?」経営会議で問われた時の最適解
「従業員のウェルビーイング向上のため、新たな施策を導入したい」
人事担当者としてそう提案した際、経営会議、特に財務担当役員から「その投資に対するリターンは、具体的にどう見積もっているのか?」と問われ、明確な回答に窮した経験はないでしょうか。
ウェルビーイング経営の重要性が認識されつつある一方で、その取り組みが「コストセンター」として見なされ、投資判断の優先順位が低くなってしまうケースは少なくありません。この壁を突破するためには、ウェルビーイングへの支出を「コスト」ではなく、「リターンを生む戦略的投資」として、論理的かつ定量的に説明する視点が不可欠です。
本コラムでは、ウェルビーイング経営の投資対効果(ROI)をどのように捉え、可視化していくべきか、その具体的なアプローチについて解説します。データに基づいた説明責任を果たすことが、全社的な理解と協力を得るための鍵となります。
ウェルビーイング投資のリターンを多角的に捉える
ウェルビーイング経営のROIを考える際、その効果を「直接的なリターン」と「間接的なリターン」の二つの側面に分けて整理すると、その全体像が理解しやすくなります。
直接的なリターン:コスト削減効果
こちらは比較的、数値化しやすい領域です。従業員の心身の健康が向上することにより、企業が負担するコストが直接的に減少する効果を指します。
- 休職・離職に伴うコストの削減
メンタル不調による休職者が減少すれば、代替要員の確保や業務引き継ぎにかかるコストが削減されます。また、離職率が低下すれば、一人あたり数百万円とも言われる採用コストや新人研修コストを大幅に削減できます。 - 労働災害の減少
従業員の集中力や注意力が維持されることで、労災発生率が低下し、関連コストを抑制することに繋がると考えられます。
間接的なリターン:企業価値向上の源泉
こちらは数値化の難易度が上がりますが、企業の持続的成長にとってより本質的で、大きなインパクトを持つリターン領域です。ウェルビーイング経営がもたらすポジティブな影響が、組織の能力そのものを高める効果を指します。
- 生産性の向上(プレゼンティーズムの改善)
「出社はしているが、心身の不調により本来のパフォーマンスを発揮できていない状態」をプレゼンティーズムと呼びます。ウェルビーイングの向上は、このプレゼンティーズムを改善し、従業員一人ひとりの業務効率やアウトプットの質を高めることに直結します。 - 創造性・イノベーションの促進
心理的安全性が高く、心に余裕がある状態では、従業員は失敗を恐れずに新しいアイデアを提案し、挑戦するようになります。このような組織風土が、新たな製品やサービスの創出、業務プロセスの革新といったイノベーションの土壌となります。 - 企業ブランド・評判の向上
「従業員を大切にする会社」という評判は、顧客や取引先からの信頼を高め、優秀な人材を引きつける強力なマグネットとなります。これは、ウェルビーイング経営がもたらす無形の資産と言えるでしょう。
ISO30414フレームワークの活用
これらのリターンを体系的に整理し、投資家に説明する上で、人的資本に関する情報開示の国際ガイドラインである「ISO30414」のフレームワークが非常に有効です。この中には「労災により失われた時間」や「離職に伴うコスト」などの指標が示されています。このような国際基準に準拠した指標を用いることで、ウェルビーイング経営の取り組みと成果を、客観的かつ比較可能な形で示すことが可能になります。
*ISO30414についてさらに知りたい方は、以下のコラムをご参照ください。
ROI可視化への実践的ステップ
では、実際に自社のウェルビーイング経営におけるROIを可視化するためには、どのようなステップを踏めば良いのでしょうか。ここでは、そのプロセスを具体的に掘り下げていきます。
Step1:課題の根本原因を特定し、KPIを設計する
まず、「何のためにウェルビーイング経営を推進するのか」という目的を明確にします。例えば「若手社員の離職率の高さ」が課題であれば、「なぜ彼らは辞めてしまうのか?」を深掘りします(例:成長実感の欠如、長時間労働)。この根本原因の解消に繋がるよう、KPIを財務・非財務の両面から設計します。
- 財務KPIの例:若手社員の離職率、採用コスト、一人当たり売上高
- 非財務KPIの例:若手社員のエンゲージメントスコア、キャリア満足度、月間平均残業時間、1on1実施頻度
Step2:社内データの棚卸しと投資額の精密な算出
KPIを測定するために必要なデータが、社内のどこに、どのような形で存在するかを棚卸しします(人事システム、勤怠システム、健康管理システム、サーベイ結果など)。そして、これから実施する施策にかかる投資額を、直接コストだけでなく間接コストも含めて精密に算出します。
- 直接コスト:研修の外部委託費用、ツールのライセンス料など。
- 間接コスト:施策の企画・運営にかかる人件費、従業員が研修に参加する時間(本来の業務ができなかった機会費用)など。
Step3:比較分析を意識した効果測定の実施
施策を実行し、設定したKPIを定期的に測定します。この際、施策の効果をより正確に測るため、比較分析の手法を取り入れることが推奨されます。主な手法として、「時系列比較」と「グループ比較」があります。
- 時系列比較
施策を導入した部署やチームについて、施策実施前(Before)と実施後(After)の数値を比較します。最もシンプルで直感的な方法であり、「施策後に何らかの変化があったか」を確認する第一歩となります。
ただし、この方法だけでは、施策以外の要因(例:景気や市場環境の変化)による影響と、施策そのものの効果を切り分けることが難しいという課題があります。 - グループ比較
この課題を補うため、施策を導入した部署(以下、部署A)と、導入していない類似の部署(以下、部署B)の、施策実施「後」の状態を比較します。全社に影響するような外的要因があった場合、その影響は両グループに及んでいると考えられるため、その差を見ることで施策の効果を推し量ることができます。
一般的には、この「時系列比較」と「グループ比較」を組み合わせて評価することが有効です。つまり、施策後、施策を導入した部署Aが、導入していない部署Bよりも高い成果を示し、かつ、部署A自体の数値も施策前より改善していることを確認することで、施策の効果をより多角的に示すことができます。
なお、さらに厳密な効果測定を求める場合には、より高度な統計的手法も存在します。その代表例が「差分の差分法(DID: Differences in Differences)」です。これは、施策を導入した部署Aと、導入していない部署Bそれぞれの「施策前後の変化量」を算出し、その変化量の差を見ることで、施策以外の外的要因の影響を統計的に取り除き、施策の純粋な効果を推定する手法です。
Step4:相関分析と効果の貨幣価値への換算
収集したデータを基に、施策とKPIとの間に相関があるかを分析します。例えば、「1on1の実施頻度が高い部署ほど、離職率が低い」といった関係を見出します。 さらに、その効果を可能な限り貨幣価値に換算し、ROIを算出します。以下は、そのモデルケースです。
- リターン(年間コスト削減額) = (施策による離職者の減少分)×(従業員一人当たりの離職に伴うコスト)
- 投資額 = 施策にかかった総コスト
- ROI(%) = (リターン ÷ 投資額) × 100
なお、離職に伴うコストには、採用コスト、育成コスト、代替要員が見つかるまでの機会損失などが含まれます。 このような具体的な数値を示すことで、経営層に対して、ウェルビーイング経営が感覚論ではなく、合理的な投資であることを力強く証明できます。
データはウェルビーイング経営を加速させる推進力
ウェルビーイング経営のROIを可視化する試みは、単にコスト削減効果を示すだけではありません。それは、人材という最も重要な資本に対して、企業がどれだけ真摯に向き合い、その価値を最大化しようとしているかを示す、力強いメッセージとなります。
データに基づいた論理的な説明は、経営層の納得感を引き出し、取り組みをさらに加速させるための予算やリソースの確保に繋がります。ウェルビーイング経営を、感覚的な「良いこと」から、データに基づいた「合理的な経営判断」へと昇華させることが、今まさに求められているのです。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の課題解決をサポートします。ウェルビーイング経営のROI設計やデータ分析、KPI設定など、より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。