「まさかあの人が」という衝撃を防ぐために
「不満もなさそうだった」「最近、重要なプロジェクトを任せたばかりだった」
経営者や人事担当者にとって、組織の中核を担うエース社員からの退職願は、まさに青天の霹靂として受け止められることが多いものです。しかし、退職という意思決定が、ある日突然行われることは稀です。水面下では長い時間をかけて、会社への信頼や情熱、すなわち「エンゲージメント」が摩耗し続けていた可能性が高いのです。
本コラムでは、離職のトリガーとなる「見えない要因」を解像度高く捉え、組織サーベイなどを活用したアプローチによって、人材流出を未然に防ぐための手法について詳述します。
エンゲージメント低下の真因を解像度高く捉える
「満足度」と「エンゲージメント」の決定的な違い
離職対策として「従業員満足度調査」を実施する企業は多いですが、ここで注意すべきは「満足度」と「エンゲージメント」は似て非なるものであるという点です。
「満足度」は、給与、福利厚生、オフィス環境といった「衛生要因」が満たされているかどうかの指標です。これが低いと不満(離職要因)になりますが、高いからといって必ずしもパフォーマンス向上や定着(動機づけ要因)には結びつきません。満足度は高くても、「居心地が良いだけで挑戦しない」「会社にぶら下がっている」状態、いわゆる「静かな退職」予備軍を生むリスクすらあります。
一方、人的資本経営において重視すべき「エンゲージメント」は、企業のビジョンへの共感や、自発的な貢献意欲を指します。「この会社で働くことに意味を感じる」「仕事を通じて成長できる」という状態です。ハイパフォーマーほど、単なる満足度(快適さ)よりも、このエンゲージメント(やりがい・成長)を重視します。
したがって、離職率改善のために福利厚生を充実させるだけでは、優秀な人材の流出は止まらないのです。
「期待値ギャップ」と「心理的安全性」の欠如
エンゲージメントが低下する最大の要因は、会社と個人の間の「期待値のズレ(ギャップ)」です。 コトラでは、サーベイを用いて「従業員が会社に求めていること」と「現状の充足度」のギャップを分析することを推奨しています。
例えば、「正当な評価」を極めて重視しているにもかかわらず、その満足度が著しく低い場合、そのギャップは強力な離職トリガーとなります。逆に、「福利厚生」への重要度が低い従業員に対し、どれほど手厚い制度を提供しても、エンゲージメント向上への寄与度は限定的です。 一律の施策ではなく、従業員が「何を期待しているか」という心理をデータから読み解くことが肝要です。
また、近年注目される「心理的安全性」の欠如も見逃せません。心理的安全性とは、「リスクを冒して発言しても、罰せられたり拒絶されたりしない状態」を指します。 「悪い報告をすると上司が不機嫌になる」「異論を唱えると排除される」といった組織風土では、不満や課題が水面下に潜り込みます。その結果、経営層には「順調」という誤った情報だけが上がり続け、ある日突然、大量離職やエース社員の退職という形で問題が顕在化するのです。
離職の「段階的な心理変化」を理解する
離職に至るプロセスは、目に見える「退職願」が出されるずっと前から、社員の心の中で段階的に進行しています。この心理的な変化のプロセスを理解することが重要です。一般的に、以下のような段階を経て離職の意思は固まっていきます。
- 日々の小さな違和感
「言っていることとやっていることが違う」「会議が無意味に長い」といった、日常業務における小さな疑問や不満が芽生える段階。 - 諦めと無関心
違和感を伝えても改善されない経験を重ね、「言っても無駄だ」「自分の仕事だけしていればいい」と、組織に対する期待を捨てて心を閉ざす段階。 - 信頼の毀損
「この上司にはついていけない」「会社の方針が信じられない」と、組織や経営に対する信頼関係が決定的に損なわれる段階。 - 離職の決意
具体的な転職活動を開始し、次の行き先が決まった時点で退職を申し出る段階。
多くの企業は、社員が「4」の段階に至って初めて慌てて引き留めを行いますが、この時点で信頼関係はすでに崩壊しており、翻意させることは極めて困難です。組織サーベイの真の目的は、「1」や「2」のまだ修復可能な段階でアラートを検知し、早期に対策を講じることにあります。
「測定」から「対話」へ、そして「行動」へ
「やりっぱなしサーベイ」が組織の信頼を損なう
サーベイを実施すること自体が、組織改善のメッセージになると考えるのは危険です。むしろ、課題を聞くだけ聞いて何もアクションを起こさない「やりっぱなしサーベイ」は、「会社は私たちの声を聞く気がない」という無力感を生み、かえってエンゲージメントを低下させてしまいます。
重要なのは、良くないものも含めてサーベイ結果を従業員にフィードバックし、「対話」の場を設けることです。「なぜこの項目のスコアが低いのか」「具体的に何が障害になっているのか」を、現場レベルで話し合うプロセスこそが、信頼回復の第一歩となります。
データに基づく「1on1」と「仕事の再設計」
サーベイで全体傾向を掴んだ後は、個別の「1on1ミーティング」で解像度を上げます。ここで有効なのが、従業員の価値観に焦点を当てたアプローチです。
エンゲージメントを高めるためには、従業員個々の「価値観」と「業務内容・環境」が適合しているかが重要です。
コトラでは、組織サーベイを用いて従業員が大切にしている価値観を分析し、現状とのギャップを可視化することを推奨しています。 例えば、「変化・挑戦」を重視する社員が、ルーチンワーク中心の環境にいれば、モチベーションは維持しにくくなります。逆に「安定・協調」を重視する社員に、過度な競争環境を与えれば疲弊してしまいます。
このミスマッチを解消するために、「仕事の再設計(ジョブ・クラフティング)」という手法が有効です。これは、与えられた業務をそのままこなすのではなく、社員自身の強みや価値観に合わせて、業務の範囲や進め方を微調整することを指します。
上司は1on1を通じて、「君の強みである〇〇を活かすために、このプロジェクトのこの部分を任せたい」といった調整を行うことで、同じ業務であってもエンゲージメントを劇的に高めることが可能です。
ミドルマネジメントへの支援とフィードバックループ
離職防止の最前線にいるのは現場の管理職ですが、彼ら自身が多忙を極め、エンゲージメントが低下しているケースも散見されます。人事部門は、管理職に対して「スコアが低いから改善しろ」と圧力をかけるのではなく、「チームの状態を良くするために、どのようなサポートが必要か」を問いかけるパートナーであるべきです。
サーベイ結果を基に、管理職が部下と対話するためのツールキット(対話ガイドラインなど)を提供したり、管理職自身の悩みを吸い上げる機会を設けたりすることが重要です。
「測定(サーベイ)→ 対話(フィードバック)→ 改善アクション → 再測定」というフィードバックループを回し続けること。この地道な営みが、従業員に「会社は本気で変わろうとしている」というシグナルを送り、エンゲージメントの土台を築きます。
エンゲージメント向上は、経営の最優先事項
離職率を下げるということは、単に人を辞めさせない(囲い込む)ということではありません。従業員一人ひとりが、自社で働くことに意味を見出し、意欲的に業務に取り組める状態を作ることです。その結果として、離職率が適正な水準に落ち着き、生産性が向上し、企業価値が高まるのです。
離職率というシグナルを軽視せず、そこから組織の課題を真摯に受け止め、改善のアクションを起こし続ける企業だけが、優秀な人材に選ばれ続けることができるでしょう。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の課題解決をサポートします。エンゲージメントサーベイの実施や、価値観分析に基づいた組織改善など、より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。




