「開示できるデータがない」は、組織変革のサイン
有価証券報告書における人的資本情報の開示義務化を受け、多くの企業の人事・経営企画担当者から、切実な声が聞こえてきます。
「そもそも、開示しろと言われても、社内にデータが存在しない」
「データはあると思うが、様々な部署にデータが散在しており、収集に時間がかかる」
もし、貴社でも同様の課題に直面しているとすれば、それは単なる報告書作成上の問題に留まりません。有価証券報告書という鏡が、自社の人材戦略やデータ基盤の脆弱さという、より根深い経営課題を映し出している、と捉えるべきかもしれません。
しかし、これを悲観する必要はありません。むしろ、この「開示できない」という現実こそが、旧来の人事管理から脱却し、データドリブン人事へと舵を切る、またとない機会となるのです。本コラムでは、有価証券報告書への対応をきっかけとしたデータドリブン人事への転換について考察します。
成長の陰で、人材情報がブラックボックス化するC社の現実
当社のご支援実績をもとに、ある急成長中のITベンチャーC社のケースを例に考えてみましょう。
C社は、創業以来、事業が急拡大を続け、従業員数もこの数年で倍増しました。しかし、その成長は個々の従業員の能力と献身に依存するところが大きく、人事制度やデータ基盤の整備は後回しになっていました。誰がどのようなスキルを持っているのか、次にリーダーを任せられる人材は誰か、といった情報は、経営陣や一部のマネージャーの頭の中にしか存在しない、属人化された状態でした。
上場を視野に入れ、有価証券報告書の準備を始めたC社は、ここで大きな壁にぶつかります。「人材育成方針」や「社内環境整備方針」の欄に、理念や精神論は書けても、その実態を示す具体的なデータが何もなかったのです。従業員の研修時間、資格保有状況、キャリアパスの実績など、基本的な情報すら正確に把握できていませんでした。
このままでは、投資家に自社の成長の持続性を説明できない。C社の経営陣は、有価証券報告書の作成という目の前の課題を通じて、自社の経営基盤そのものの脆弱性を痛感することになったのです。
問題の本質は「データの不在」ではなく「戦略の不在」
データがないのではなく、データを集める思想と仕組みがなかった
C社のようなケースで、問題の本質はどこにあるのでしょうか。それは、単に「データがない」ことではありません。より正確に言えば、「戦略に基づいて人材情報を収集・活用する仕組みと思想がなかった」ということです。
これは、単に人事システム(仕組み)が導入されていなかった、という話に留まりません。より根深いのは、経営陣が「人材データは勘や経験よりも重要である」と考える文化(思想)がなく、結果として「事業戦略上、どんな人材情報が必要か」という目的意識を持ってこなかった点にあります。目的意識がないため、データを集める必要性も感じられず、結果として仕組みも作られないままだったのです。
この「思想と仕組み」の欠如が、C社のような企業を「開示しようにも、語るべきデータがない」という状況に追い込んでいるのです。目的が定まらないまま、やみくもにデータを集め始めても、それは現場の負担を増やすだけの「宝の持ち腐れ」になりかねません。
重要なのは、「何から手をつけるか」です。壮大なデータ基盤の構築を夢見る前に、まずどこに焦点を当て、最初の成功体験を掴むべきなのでしょうか。
「戦略的な問い」から始めるデータ基盤構築
この「何から手をつけるか」という問いに対するよくある失敗は、最初から全社的な人材データベースの構築といった、壮大すぎる目標を掲げてしまうことです。目的が曖昧なままでは、こうしたプロジェクトは形骸化し、頓挫しがちです。
そこで私たちは、まず「経営上の、最も重要な問いを一つ設定する」ことから始めるアプローチをご提案しています。全社の人材データを網羅的に集めるのではなく、「その問いに答えるため」に必要なデータに絞って、収集・可視化の第一歩を踏み出すのです。
例えば、急成長するC社の経営陣が抱える最も切実な問いが、「事業拡大を支える次世代リーダー候補は、本当に社内にいるのか?」だとします。この問いに答えるために、まず着手すべきなのは、多くの企業に存在する、あるいは比較的手に入れやすい基本的なデータを活用することです。
- まず、過去数年間の人事評価データを集約し、継続的に高い成果を上げている「ハイパフォーマー」を客観的にリストアップします。
- 次に、各部門の責任者に対して、リストアップされた人材が次世代のリーダーとしての「ポテンシャル(将来性)」を秘めているか(例:チームを牽引する力、困難な課題への挑戦意欲など)を、統一された基準でヒアリングします。
- 最後に、「パフォーマンス(実績)」と「ポテンシャル(将来性)」の2軸で人材をプロットした「タレントマップ」を作成し、次世代リーダー候補群を可視化します。
この小さな成功体験こそが、データ活用の有効性を社内に示し、「では、次は離職率低下の原因を分析しよう」「全社のデータ基盤を整えよう」という機運を生み出します。壮大なシステムの構築から入るのではなく、切実な経営課題の解決から入る。これこそが、データドリブン人事への最も確実な一歩だと、私たちは考えます。
「データドリブン人事」を推進する、実践的な3ステップ
開示を機とした人材戦略の変革は、壮大なプロジェクトに聞こえるかもしれません。しかし、「戦略的な問い」から始めることで、着実に進めることが可能です。
ステップ1:経営課題に直結する「問い」を設定する
まず、人事・IR担当者だけで考えるのではなく、経営陣や事業責任者を巻き込み、「今、人材に関するデータがあれば、どんな経営判断に役立てたいか?」という議論から始めます。「離職率が高い根本原因は何か?」「本当に育成投資は成果に繋がっているのか?」など、具体的で切実な「問い」を特定します。
ステップ2:問いに答えるための「最小限のデータ」を収集・可視化する
設定した問いに答えるために、本当に必要なデータは何かを見極めます。最初からタレントマネジメントシステムを導入せずとも、既存の人事情報、アンケート、あるいはExcelでの管理でも構いません。まずはスモールスタートでデータを収集・分析し、問いに対する仮説を立てることに集中します。
ステップ3:小さな成功を基点に「人事PDCAサイクル」を回す
分析から得られた示唆を基に、具体的な人事施策(研修内容の見直し、配置転換など)を実行します。そして、その施策がデータにどう影響したかを継続的に観測します。この小さなPDCAサイクルを回し、データ活用の成功体験を積み重ねることが、全社的なデータドリブン文化の醸成と、より大きなデータ基盤構築への説得力に繋がっていきます。
人的資本開示は、人材戦略変革のスタートライン
有価証券報告書の作成において「開示できるデータがない」という悩みは、見方を変えれば、自社の人材マネジメントを次世代のステージへと進化させる絶好の機会です。
人的資本開示を単なる義務化対応として受け身で捉えるのではなく、データドリブン人事を推進し、企業の根幹を強化するためのトリガーとして能動的に活用する。その意志決定こそが、未来の企業間競争を勝ち抜くための重要な鍵となるでしょう。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の人的資本開示の高度化をご支援します。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。