有価証券報告書、投資家との対話のきっかけになっていますか?
人的資本情報の開示が義務化され、各社が有価証券報告書の充実に努める中、経営者やIR責任者の皆様は、このような疑問をお持ちではないでしょうか。「我々の開示内容は、本当に投資家に評価されているのだろうか?」
時間と労力をかけて作成した有価証券報告書が、投資家とのエンゲージメント(対話)において有効に機能せず、一方的な情報発信に終わってしまっては、その価値は半減してしまいます。投資家が非財務情報、とりわけ人的資本情報を重視する傾向は年々強まっています。彼らはそのデータから、企業の持続的な成長可能性を読み解こうとしているのです。
では、投資家は有価証券報告書のどこに注目し、何を評価の拠り所としているのでしょうか。本コラムでは、投資家の視点から「評価される人的資本開示」のポイントを探ります。
データは豊富、されどメッセージが伝わらないB社の苦悩
当社のご支援実績をもとに、ある大手小売業B社のケースを例に考えてみましょう。
全国に店舗網を持つB社は、長年にわたり従業員データを蓄積しており、人的資本に関する定量データは豊富に保有していました。有価証券報告書の作成にあたり、IR部門は、開示が推奨されている指標を可能な限り網羅し、数十ページにわたる詳細なデータを掲載しました。
しかし、アナリストや機関投資家向けの決算説明会後のフィードバックは、芳しいものではありませんでした。「データは多いが、結局、御社の強みは何なのかが分からない」「どの指標が、今後の企業価値に最もインパクトを与えるのか、優先順位が見えない」といった厳しい意見が寄せられたのです。
B社の失敗は、データの豊富さ故に、伝えるべきメッセージの焦点がぼやけてしまったことにありました。「木を見て森を見ず」の状態に陥り、投資家が最も知りたいはずの「数あるデータの中で、なぜこの指標が重要なのか」という問いに、有価証券報告書は答えることができていなかったのです。これは、情報の非対称性を解消し、自社の魅力を伝えたい企業にとって、深刻な課題と言えるでしょう。
投資家は「未来の価値創造能力」を見ている
過去の実績報告から、未来へのポテンシャル証明へ
投資家が有価証券報告書を通じて評価しようとしているのは、過去の実績報告そのものではありません。そのデータが示す、企業の「未来の価値創造能力」です。彼らは、以下のような問いに対する答えを探しています。
- この会社は、事業環境の変化に適応できる人材を確保・育成できているか?
- この会社は、イノベーションを生み出す組織文化を有しているか?
- この会社は、従業員のエンゲージメントを高め、生産性を向上させる仕組みを持っているか?
つまり、単に「女性管理職比率が15%です」と報告するだけでは不十分なのです。重要なのは、「当社の主要顧客層の女性比率が年々高まる中、意思決定層に女性が15%いることは、顧客理解を深め、市場機会を捉える上で競争優位に繋がると考えています」という、指標の背景にある戦略的な文脈を提示することです。
ISO30414のフレームワークで思考を整理する
何を開示すべきか迷った際の一つの指針となるのが、人的資本開示の国際規格である「ISO30414」です。この規格は、コストや生産性、リーダーシップ、組織文化など11の領域にわたる指標を網羅的に示しています。
ただし、これを単なるチェックリストとして使うべきではありません。重要なのは、このフレームワークを「思考の整理ツール」として活用することです。自社のビジネスモデルや経営戦略に照らし合わせ、「11の領域のうち、当社の持続的成長にとって最も重要なのはどの領域か?」を特定するのです。
例えば、技術革新が生命線であるメーカーならば「スキルと能力」、顧客接点が重要なサービス業ならば「エンゲージメント」や「組織文化」が、他社との差別化を図る上で鍵となる領域かもしれません。自社の価値創造モデルと直結する領域を特定し、そこに関する情報を重点的に、かつ深く開示することが、投資家の理解を得るための第一歩となると考えられます。
「投資家の期待」に応える、戦略的開示への3ステップ
では、B社のような「データの羅列」から脱却し、投資家との対話を生む戦略的な開示へと進化させるには、どのようなステップを踏めばよいのでしょうか。ここでは、具体的なアプローチを3段階で解説します。
ステップ1:事業戦略の核から導き出す ― 「価値創造ドライバー」の特定
外部の評価や関心事を起点とするのではなく、「そもそも自社の事業価値は何によって生み出されているのか」という内部の原理・原則から出発します。これにより、表層的ではない、極めて説得力の高い独自のナラティブを構築できます。
まず、貴社のビジネスモデルを分解し、収益と利益がどの事業活動から生まれているのか、競争優位性の源泉は何かを明らかにします。その上で、その活動を支える最も重要な人的資本関連の「価値創造ドライバー(Value Driver)」を特定します。(例:製造業であれば「熟練技術者のノウハウ」、小売業であれば「店舗スタッフの接客スキル」など)
【ポイント】
このアプローチで設定したマテリアリティ(重要課題)は、投資家からの「なぜそれが重要なのか?」という問いに対し、「なぜなら、それが当社の利益の源泉そのものだからです」と、揺るぎない根拠をもって答えることを可能にします。
ステップ2:「なぜ」と「これから」を語る ― KPIストーリーの構築
ステップ1で特定した「価値創造ドライバー」について、過去の実績を示すだけでなく、未来に向けた強化・維持のストーリーを構築します。
ここでは、価値創造ドライバーごとに「最終的に目指す成果」と「その達成に向けた先行指標」をセットで設計し、「【先行指標】が改善することで、【最終成果】が達成され、それにより【事業への貢献】が期待できる」という因果関係のストーリー(ロジックモデル)を明文化します。
例えばB社の場合、価値創造ドライバー(店舗スタッフの接客スキル)に対し、最終成果(リピート顧客率)と先行指標(店長層の1on1研修受講率、エンゲージメントスコア)などを設定します。
【ポイント】
単一のKPIを開示するのではなく、複数のKPIを組み合わせ、その関係性をストーリーとして示すことで、戦略の進捗状況と将来の見通しに対する投資家の信頼性を高めることができます。
ステップ3:価値創造への接続 ― 「論理の橋」を架ける
人的資本への投資が、どのような「論理(ロジック)」を経て事業上の価値に繋がるのかを、明確に言語化して示します。高度な財務インパクト試算が難しい場合でも、この「論理の橋」を提示するだけで、開示の説得力は格段に向上します。
ここでは、人事部門だけでなく、営業や開発といった事業部門の責任者と対話し、ステップ1で定めた価値創造ドライバーが、最終的にどの事業成果に繋がるのかを特定します。(例:小売業B社であれば「リピート顧客率」や「顧客単価」)また、ステップ2で設定した人事施策が、この事業成果にどう貢献するのかを直接結びつけ、具体的な貢献ストーリーとして文章化します。
【ポイント】
「人事施策 → 従業員の行動変容 → 事業上の成果」という流れを分かりやすく説明することが、投資家の理解と納得感を得るための鍵となります。例えばB社であれば、以下のようなものが考えられるでしょう。
「当社の成長の鍵は、各店舗の顧客満足度向上にあります。その中心となる店長のマネジメント能力を強化するため、1on1研修に投資しています。部下のエンゲージメントを高め、接客の質を向上させることが、最終的にリピート顧客率と店舗売上の向上に繋がると考えています。」
有価証券報告書は、投資家との最強のコミュニケーションツール
投資家は、有価証券報告書を単なる数字の集合体としてではなく、企業の未来を読み解くためのシナリオブックとして見ています。そこには、自社の強みと弱み、そして未来に向けた強い意志が込められているべきです。
今回ご紹介した視点に基づき、自社の開示内容を見直すことは、投資家とのより深く、建設的な対話への扉を開くことでしょう。それは、資金調達の円滑化に留まらず、自社の経営戦略そのものを磨き上げる貴重な機会にもなり得ます。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の人的資本開示の高度化をご支援します。投資家から真に評価される情報開示について、より具体的なご相談はお気軽にお問い合わせください。