なぜ、期待していた人材ほど静かに去っていくのか?
「先日、次期リーダーとして期待していた中堅社員から、突然の退職願が出された」
「採用コストをかけて獲得した若手のエースが、入社3年目で競合他社へ移ってしまった」
経営者や人事担当者の皆様の中には、このように、特に期待をかけていた優秀な人材の予期せぬ離職に、頭を悩ませている方も少なくないのではないでしょうか。
彼ら、彼女らは、離職の兆候をほとんど見せることなく、ある日突然、決断を伝えてくる傾向があります。これは、高いパフォーマンスを発揮する傍らで、自らのキャリアや成長について深く考察し、現状の環境では満たされないという判断した結果と考えられます。
多くの企業が「リテンションマネジメント」の重要性を認識し、給与水準の引き上げや福利厚生の充実といった施策を講じています。しかし、それでもなお優秀な人材の流出が止まらないとしたら、そのアプローチ自体が、現代のリテンションマネジメントの本質からずれてしまっている可能性があります。
本コラムでは、人的資本経営の観点から、なぜ従来の「引き止め策」が機能しづらくなっているのかを紐解き、企業の持続的成長に繋がる戦略的なリテンションマネジメントの本質について考察します。
リテンションマネジメントに関する「よくある誤解」と「本質」
リテンションマネジメント(Retention Management)とは、直訳すれば「維持・保持の管理」を意味し、一般的には「従業員の離職を防止し、人材を定着させるための取り組み」と解釈されています。しかし、この解釈には、いくつかの陥りやすい「誤解」が潜んでいます。
よくある誤解1:リテンションマネジメント =「金銭的報酬」での引き止め
最も多い誤解は、リテンションマネジメントを「給与や一時金(ボーナス)の引き上げ」といった金銭的報酬と同一視してしまうことです。
もちろん、自社の報酬水準が市場と比較して著しく低い場合、それは明確な離職理由となり得ます。しかし、一定の水準を超えた場合、金銭的報酬がリテンションマネジメントに与える影響は限定的になるという傾向があります。
特に優秀な人材は、報酬だけでなく「仕事のやりがい」「成長の機会」「魅力的なビジョンへの共感」といった非金銭的報酬を強く求める傾向が見られます。金銭的な不満がないにもかかわらず離職が続く場合、問題の根本は別の場所にあると考えるべきでしょう。
よくある誤解2:リテンションマネジメント =「不満の解消」
次に多い誤解は、リテンションマネジメントを「職場環境や人間関係の不満を取り除くこと」と捉えるアプローチです。
確かに、劣悪な労働環境やハラスメントが横行する職場では、人材は定着しません。しかし、「不満がない」状態(=Not Dissatisfied)は、「満足している」状態(=Satisfied)や「積極的に貢献したい」状態(=Engaged)とは異なります。
不満を解消する取り組みはリテンションマネジメントの基盤として重要ですが、それだけでは、優秀な人材を惹きつけ、留まらせる「積極的な理由」にはなり得ないのです。
本質:「戦略的人材ポートフォリオ」の維持・強化
では、人的資本経営におけるリテンションマネジメントの本質とは何でしょうか。
それは、「従業員が自らの意思で、能力を最大限に発揮しながら“留まり続けたい”と感じる環境を、経営戦略と連動して意図的・戦略的に構築・維持すること」であると、私たちは考えています。
これは、単なる「離職防止」という受け身の姿勢ではありません。経営戦略を実現するために、どのようなスキルや経験を持つ人材が、どれだけ必要なのか(=人材ポートフォリオ)を定義し、その重要な人材が外部に流出することなく、内部で育ち、活躍し続ける「仕組み」を構築する、攻めのリテンションマネジメントです。
離職の「質」を問う:「痛手となる自発的離職率」へのフォーカス
前述した「戦略的人材ポートフォリオ」の考え方を実践する上で、私たちは「離職率という数字の『中身』を分解すること」が極めて重要であると考えています。
人的資本に関する情報開示の国際ガイドライン「ISO 30414」においても、単なる離職率だけでなく、「痛手となる自発的離職率」という指標が示されています。これは、企業にとって代替が困難であったり、将来の成長に不可欠な「重要人材」が、自らの意思で辞めた割合を指します。
多くの企業は、全社的な離職率が1〜2%上昇しただけで「対策が必要だ」と慌てる傾向があります。しかし、その離職の内訳が「組織の新陳代謝を促す、健全な入れ替わり」なのか、それとも「企業の競争力を削ぐ、痛手となる自発的離職」なのかによって、打つべき手は全く異なります。
私たちは、この「痛手となる自発的離職率」をKPIとしてモニタリングすることを推奨しています。全員を一律に引き止めようとすることは、リソースの分散を招くだけでなく、組織の停滞を生むリスクすらあります。
「誰が辞めたのか」という「離職の質」にこだわり、真に守るべき重要人材にリテンションのリソース(報酬、機会、ケア)を集中投下する。このメリハリのある「戦略的公平性」こそが、人的資本経営時代のリアルなリテンションマネジメントです。
戦略的リテンションマネジメントを実践する3つの視点
本質的なリテンションマネジメントを実践し、「痛手となる自発的離職」を防ぐために、企業はどのような具体的な一歩を踏み出せばよいのでしょうか。ここでは、戦略構築の基盤となる3つの視点をご紹介します。
視点1:離職の「真因」を特定する(出口管理から源流管理へ)
多くの企業が退職者面談を実施していますが、本音の離職理由が語られることは稀であり、表面的な「出口管理」に留まっているケースが見受けられます。
重要なのは、退職が決まる前の段階、すなわち在籍している従業員が何に満足し、何に不満や不安を感じているのかを「源流管理」することです。
- 組織サーベイの活用
定期的なエンゲージメントサーベイやパルスサーベイは、組織の「健康状態」を測る体温計です。スコアの全体的な高低だけでなく、部署別、役職別、勤続年数別といったセグメンテーション分析を行い、どの層にリテンションマネジメント上のリスクが潜んでいるかを特定します。 - 1on1ミーティングの質的分析
定量データであるサーベイと補完関係にあるのが、1on1ミーティングなどの「質的データ」です。上司と部下の対話の中で語られるキャリアへの不安や、成長実感の欠如といったシグナルを、いかに組織として吸い上げ、分析できるかが鍵となります。
視点2:「辞めない理由」より「留まる積極的な理由」を構築する
前述の通り、不満の解消(辞めない理由づくり)だけでは、リテンションマネジメントとして不十分です。従業員が「この会社で働き続けたい」と積極的に思える理由を構築する必要があります。
- 魅力的なキャリアパスの提示
従業員が「この会社にいれば、こんなスキルが身につき、こんなキャリアが描ける」と将来を具体的にイメージできることが重要です。社内公募制度の活性化やリスキリングの機会提供などが、これにあたります。 - 「成長実感」の醸成
挑戦的な業務のアサイン、質の高いフィードバック、適切な権限委譲などを通じて、従業員が「昨日より今日、成長できている」と実感できる環境を整備することが、極めて効果的なリテンションマネジメント施策となります。
視点3:経営戦略と連動した「人材ポートフォリオ」を定義する
リテンションマネジメントは、すべての人材を一律に引き止めることではありません。経営戦略・事業戦略の実現に向けて、自社にとって「特に重要な人材」は誰なのか、その定義を明確にすることがスタートラインです。
- サクセッションプランとの連動
次世代の経営幹部候補や、特定の重要スキルを持つ専門人材など、流出が経営に与えるインパクトが大きい人材層を特定します。 - 重点的なリテンションマネジメントの実施
特定された重要人材に対しては、個別の育成計画の策定、メンター制度の導入、挑戦的な機会の提供など、手厚いリテンションマネジメント施策を集中投下することが、リソースの効率的活用に繋がります。
リテンションマネジメントは「未来への投資」である
本コラムでは、「リテンションマネジメント」に関するよくある誤解と、その本質的なアプローチについて考察しました。
優秀な人材の離職は、単なる「コスト(採用・育成費用の損失)」ではなく、企業にとって最も重要な「資産(ノウハウ、組織力、将来の可能性)」の流出を意味します。
場当たり的な「引き止め策」から脱却し、「痛手となる自発的離職」の本質的な要因と向き合い、彼らが自律的に「留まりたい」と思える魅力的な環境を戦略的に構築すること。この攻めのリテンションマネジメントこそが、不確実な時代において企業の持続的成長を支える基盤となると考えられます。
リテンションマネジメントへの取り組みは、目先のコスト(人件費)ではなく、未来への「投資」です。この投資に真剣に取り組むことが、結果として企業の競争力を強化し、人的資本の価値を最大化することに繋がるのではないでしょうか。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の課題解決をサポートします。組織サーベイの分析を通じた離職の真因特定や、それに基づく具体的なリテンションマネジメント施策の策定など、より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。




