「人への投資」の成果をどう証明するか
賃上げの機運が高まり、リスキリングや健康経営への投資が増加する中で、経営者やCFO(最高財務責任者)はこれまで以上にシビアな視点を持っています。それは、「増額した人件費や教育費は、本当に企業の利益につながっているのか?」という問いです。
これまでの人事部門は、予算内でのコスト管理には長けていても、その投資対効果(ROI)を財務的なロジックで説明することには慣れていないケースが多く見られました。しかし、人的資本経営の文脈では、人材にかかる費用を単なる「削減すべきコスト(PL上の費用)」としてではなく、将来のリターンを生むための「投資」として捉え直す必要があります。
本コラムでは、人的資本への投資が財務的なリターンに結びついているかを測るための指標、特に「人的資本ROI」や生産性指標に焦点を当て、その算出方法と活用のポイントを解説します。
人的資本ROI:投資効率を測る重要指標
人的資本への投資効率を測る代表的な指標が「人的資本ROI(Return on Investment)」です 。これは、企業が投じた人的資本コストに対して、どれだけの付加価値(リターン)が生み出されたかを示すものです。
人的資本開示の国際規格であるISO 30414でも開示が推奨されており、投資家が企業の「稼ぐ力」を判断する上で重視する指標の一つと言えるでしょう。
算出方法と意味合い
一般的な人的資本ROIの算出式は以下の通りです 。
※人的資本コスト=給与+諸手当
この計算式の分子は、企業の売上から「人件費以外の全ての費用(材料費、広告宣伝費など)」を差し引いたものです。つまり、「純粋に人が介在することで生み出された付加価値」を算出しています。これを分母である「人的資本コスト」で割ることで、人的資本に対する投資が、どれほどの付加価値を生んだのかが可視化されます。
分析のポイント:時系列と要因分解
人的資本ROIを開示・活用する際、単年度の数値だけを見てもその良し悪しは判断できません。重要なのは経年変化(時系列)でのモニタリングです。
数値が変動した際、その要因が分子(付加価値)にあるのか、分母(コスト)にあるのかを分解して分析する必要があります。
- 人的資本ROI向上
生産性向上により付加価値が増えた「良い向上」か、人的資本への必要な投資を抑制してコストを下げただけの「見せかけの向上」か。 - 人的資本ROI低下
業績悪化によるものか、あるいは将来の成長に向けた採用増や賃上げによる「攻めの先行投資」か。
このように背景を言語化できて初めて、経営判断に資する指標となります。
生産性を多角的に捉える
人的資本ROIは強力な指標ですが、それ単体では組織の細部まで見通すことはできません。生産性をより立体的に捉えるためには、いくつかの指標を組み合わせる必要があります 。
従業員一人当たりのパフォーマンス(Output)
最も基本的かつ比較容易な指標として、「従業員一人当たり売上」や「従業員一人当たりEBIT(利払前・税引前利益)」があります 。
- 従業員一人当たり売上 = 売上高 ÷ 総従業員数
- 従業員一人当たりEBIT = EBIT ÷ 総従業員数
※EBIT=経常利益+支払利息-受取利息
これらの指標は、同業他社との比較(ベンチマーク)が容易であるため、業界内での自社の競争力や立ち位置を客観視するのに役立ちます。
コスト(Input)の妥当性と質の検証
生産性(ROI)を高めるには、分母となるコスト(インプット)を適正化する必要があります。しかし、単にコストを削減することが「最適化」ではありません。安易なコスト削減は、かえって将来の生産性を損なうリスクがあるからです。
例えば、コスト指標の一つである「一人当たり採用コスト」 を下げることに固執した結果、ミスマッチによる早期離職が増加しては本末転倒です。この場合、採用にかけた費用は無駄になり、再採用のコストも発生するため、トータルの生産性は低下します。 したがって、コスト指標をモニタリングする際は、その投資が適切に機能しているかを示す以下の指標とセットで評価することが重要です。
- 入社後一定期間内の離職率
採用した人材が定着しているか(投資が無駄になっていないか) - 採用充足率
計画通りに必要な人材を確保できているか
また、コストの範囲についても注意が必要です。業務委託や派遣社員といった外部リソースの活用が重要なビジネスモデルにおいては、正社員の人件費だけでなく、業務委託や派遣社員などの「外部労働力コスト」 を考慮した方が、実態に即した経営判断が可能になります。
数値の背後にある「ストーリー」を語る
財務的なKPIを開示する際、最も重要なのは「数値の背景にあるストーリー」を語ることです。
仮に、ある年度の人的資本ROIや一人当たり利益が低下したとします。数字だけ見れば「生産性の悪化」と判断されかねません。 しかし、その背景に「将来の成長に向けたDX人材の採用強化」や「大規模なリスキリング研修の実施」という明確な投資アクションがあり、それが将来の利益成長シナリオと整合していれば、投資家はそれを「ポジティブな先行投資」と捉えます。
財務指標(EBITやROIなど)と非財務指標(エンゲージメントスコアや研修受講率など)の相関関係を分析し、「エンゲージメントの向上が、結果として生産性を押し上げている」といった独自のロジックを示すことができれば、開示の説得力は格段に高まります。
このように、財務データと非財務データを統合的に分析・開示することは、投資家との対話の質を高めるための強力な武器となります。
確信を持って「人」に投資できる経営へ
本コラムでは、人的資本ROIをはじめとする生産性指標の算出方法と活用のポイントについて解説してきました。生産性指標は、これまで「見えざる資産」であった人材の価値を可視化し、経営の表舞台に引き上げるための共通言語です。
もちろん、財務数値と非財務指標を紐づけ、その因果関係を解き明かすプロセスは決して容易なものではありません。しかし、その先にあるのは、感覚や経験則のみに頼る経営からの脱却です。 「人への投資」がどのように財務的成果に結びついているのか。そのロジックを数字で証明できたとき、企業は迷いなく人材への投資を加速させることができるでしょう。
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