人的資本開示、ただの数値の報告で終わっていませんか?
「女性管理職比率が向上しました」
「従業員の研修時間が増加しました」
これらは、人的資本経営における重要な成果です。しかし、これらの事実をただ報告するだけでは、中長期的な視点を持つ投資家からは「So what?」「人的資本への投資が、将来的なROEやPBRの向上とどう関係するのか?」という根源的な問いが返ってくるでしょう。
多くの企業が直面するこの課題の根本原因は、個々のデータが企業の価値創造という一つの物語(ナラティブ)の中で結びついていないことにあります。人的資本可視化指針が本来目指しているのは、単なるデータの羅列ではなく、この価値創造ストーリーを説得力をもって語ることです。
本コラムでは、指針の本来の趣旨に立ち返り、散逸しがちな人的資本データを、企業価値向上という一本の線で繋ぐためのストーリー構築法を解説します。
価値創造ストーリーを構成する3つの要素
人的資本可視化指針の根底にあるのは、「人材への投資(Input)が、いかにして企業価値の向上(Output/Outcome)に繋がるのか」という関係性を明確にすることです。投資家が最も知りたいのはこの繋がりであり、説得力のあるストーリーは、以下の3つの要素で構成されていると考えられます。
「なぜ(Why)」:全ての起点となる経営戦略
価値創造ストーリーの出発点は、必ず自社の経営戦略でなければなりません。
- 例(A社:ハードウェア製造業)
「我々の経営戦略は、従来の製品売り切りモデルから、顧客に継続的な価値を提供するSaaS型サービスモデルへと事業を転換することである」
この「なぜ」という大義名分があって初めて、人材戦略や個別のKPIが意味を持ち始めます。
「何を(What)」:経営戦略を実現するための人材戦略・人事施策
次に、経営戦略という「なぜ」を実現するために、「どのような人材戦略・人事施策(What)」が必要になるのかを具体的に示します。
- 例(A社)
「そのために、既存の営業職を『顧客の成功を支援するカスタマーサクセス職』へと転換させるための大規模なリスキリングと、成果指標を売上から顧客維持率へ変更する新人事制度の導入を最重要の経営課題と位置づけている」
これは、経営戦略と現場の活動とを結びつける、ストーリーの「幹」となる部分です。
「どうなるのか(How)」:戦略の進捗を示すKPI
最後に、人材戦略・人事施策の進捗を、客観的なデータで証明します。
- 例(A社)
「その結果、カスタマーサクセス認定資格の保有者数が前年比で50%増加し、これが主要事業の解約率の2%改善に貢献した。この傾向が続けば、3年後には目標とする収益構造の実現が見込まれる」
この具体的な証拠があって初めて、ストーリーは信頼性を獲得します。人的資本可視化指針の7分野19項目は、この証拠を示すためのKPIを体系的に整理した参照すべき枠組みとして機能します。
結果としての「KPI」と、その背景にある「戦略」
多くの企業が陥りがちなのが、個々のKPI(指標)の選択と開示という、部分的な最適化に終始してしまう点です。その結果、指標同士の繋がりや経営戦略との連動性が見えなくなり、投資家からは「So What?」という問いを投げかけられてしまいます。
重要なのは、KPIを単なる「結果指標」として捉え、その背景にある「戦略」そのものを論理的に構築することです。人的資本可視化指針は、単なるKPIの選択リストとして使うのではなく、経営戦略と連動した人材戦略の全体像を体系的に構築するためのフレームワークとして活用すべきです。
価値創造ストーリーを構築する3ステップ
では、具体的に自社の価値創造ストーリーを構築するには、どうすればよいのでしょうか。
ステップ1:自社の「価値創造モデル」を言語化する
まず、経営陣と人事部門、事業部門が一体となり、「自社において、人がどのように価値を生み出しているのか」という価値創造のメカニズム(モデル)を言語化します。
- 例(A社)
「従業員の顧客課題解決スキルの向上(人的資本)が、顧客エンゲージメントの深化に繋がり、それが解約率の低下とアップセル・クロスセルの増加(事業成果)を通じて、最終的に安定的な収益基盤と高い企業評価(財務・非財務価値)を創出する」
このモデルを明確にすることで、ストーリーの骨子が固まります。
ステップ2:物語を際立たせる戦略的KPIを選定する
次に、ステップ1で言語化した価値創造モデルを、最も効果的に表現できるKPIを選定します。ここでのポイントは、人的資本可視化指針が示す「比較可能性」と「独自性」のバランスです。
- 比較可能性
A社であれば、「従業員一人当たり研修時間」といった標準的なKPIを用いて、業界内での人材投資の立ち位置を示します。 - 独自性
A社の戦略の核はSaaS型サービスモデルへの転換であるため、「カスタマーサクセス認定資格の保有者比率」や「顧客維持率に連動する報酬を得ている従業員比率」といった独自のKPIを設定し、他社との差別化要因を明らかにします。
ステップ3:定量データと定性情報を統合し、物語に深みを出す
最後に、選定したKPI(定量データ)に、具体的な取り組みや背景といった定性情報を組み合わせ、物語に深みを与えます。
- 例(A社)
「カスタマーサクセス認定資格の保有者が50%増加(定量)した背景には、eラーニングと実地研修を組み合わせた独自の育成プログラムがあります。実際に、研修を終えた営業部長からは『顧客との対話の質が変わり、単なる製品説明から課題解決のパートナーへと関係が深まった』という声が上がっています。(定性)」
このように、数字と具体的なエピソードを組み合わせることで、ストーリーはより生き生きとしたものになります。
価値創造ストーリーで避けるべき「落とし穴」
一方で、ストーリー構築の際には注意すべき点もあります。
- 希望的観測で語る
具体的な施策やデータ的裏付けがないまま、「〜を目指します」といった目標だけを語っても、説得力はありません。 - 戦略とデータが分断している
様々なKPIを開示していても、それらが自社の経営戦略とどう結びついているのかが不明瞭な場合、やはり説得力のある開示にはなりません。 - 良い情報しか開示しない
ポジティブな情報だけでなく、課題や失敗、そしてそれに対する改善策を誠実に開示する姿勢が、かえって信頼を高めます。
優れたストーリーが、企業価値を正しく伝える
人的資本開示の本質は、単なる数値報告ではなく、自社の持続的な成長に向けた価値創造ストーリーを、論理と情熱をもって語ることにあります。人的資本可視化指針は、そのための思考のフレームワークであり、自社の物語を整理するための強力なツールです。優れたストーリーこそが、投資家の深い理解と共感を得て、企業価値を未来へと繋いでいくための最も確かな道筋となるでしょう。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の価値創造ストーリーの構築と、それを効果的に伝えるための情報開示高度化をサポートします。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。




