貴社の経営会議で「離職率」は議題に上がりますか?
企業の取締役会や経営会議では、財務リスクやオペレーショナルリスク、サイバーセキュリティといったテーマが議論の中心でしょう。
しかし、人材の流動性が高まり、労働人口の減少が進む今日において、「エース級のエンジニアが競合に引き抜かれるリスク」や「サプライチェーンを熟知したベテランが一斉に退職するリスク」は、もはや単なる人事課題ではありません。これらは、事業の根幹を揺るがしかねない、定量化すべき経営リスクです。
本コラムでは、人的資本可視化指針を、これまで見過ごされがちだった人的資本リスクを特定・管理するための「羅針盤」として活用し、守りの人事から脱却する道筋を示します。
なぜ、人的資本データが「リスク指標」となるのか
人的資本に関する各種指標は、単なる人事部の管理データではありません。それらは、将来発生しうる事業リスクを予兆する「先行指標」としての性質を持っています。
人的資本可視化指針が示す「リスクマネジメント」の視点
そもそも人的資本可視化指針では、開示内容を整理する上での重要な観点として、「価値向上」のストーリーと対になる「リスクマネジメント」の観点を挙げています。これは、自社が認識している人的資本に関するリスクと、それに対する有効な管理策を開示することが、企業のレジリエンス(しなやかさ)とガバナンスの成熟度を示す上で不可欠である、という考え方に基づいています。リスクを語ることは、弱みを晒すことではなく、むしろ健全な経営の証左となるのです。
実際に、指針が例示する7分野19項目の中には、特にリスクマネジメントの観点が色濃いものが含まれています。例えば、「コンプライアンス・倫理」「労働慣行」「健康・安全」に関する項目は、その指標の悪化が直接的に事業運営の停滞や法的・財務的損失に繋がりかねない、典型的なリスク項目です。また、「サクセッションプラン」の開示は、経営の根幹を揺るがす後継者リスクに、企業がどう向き合っているかを示す重要な指標と言えるでしょう。

人的資本KPIと事業リスクの繋がり
これらの指針の考え方を踏まえると、各種KPIは具体的な事業リスクと結びつけて考えることができます。例えば、「キーポジションの離職」という事象は、単に採用コストがかかるだけではありません。プロジェクトの遅延による数億円の機会損失、知的資本の流出による競争優位性の低下といった、甚大な経営インパクトをもたらす可能性があります。
人的資本可視化指針で示される項目は、以下のように具体的な事業リスクと結びつけて考えることができます。
- サクセッションプラン(後継者計画)関連の指標の悪化
経営の意思決定の遅延、重要ポジションの空白化による戦略実行不能リスク - 特定部門の離職率の上昇
基幹技術の流出、知的資本の毀損による競争優位性喪失リスク - 多様性に関する指標(女性管理職比率など)の低迷
思考の同質化によるイノベーションの停滞、多様な市場ニーズへの対応遅延リスク - 健康・安全に関する指標(労災の発生件数など)の悪化
生産ラインの停止、行政処分、訴訟といった操業停止・財務的損失リスク
これらの指標の変動をモニタリングすることは、財務諸表が悪化する前に、その根本原因となりうるリスクの芽を早期に発見することに繋がります。
人的資本リスクマネジメントを実践する3ステップ
では、具体的にどのように人的資本リスク管理のプロセスを構築すればよいのでしょうか。
ステップ1:リスクシナリオの特定とインパクト評価
まず、自社の事業にとって致命的となりうる人的資本リスクのシナリオを具体的に描き、その経営インパクトを評価します。
各事業部長を巻き込み、「自部門で、明日いなくなると最も困る人材(あるいは職務)トップ3は何か」「その場合、どのような連鎖反応が起き、事業にどのような影響(売上減、納期遅延など)が出るか」を議論するワークショップの開催が有効です。
ステップ2:KRI(重要リスク指標)の設定とモニタリング
次に、ステップ1で特定したリスクシナリオの発生確率や予兆を捉えるための重要リスク指標(KRI;Key Risk Indicator)を、人的資本KPIの中から設定します。例えば「研究開発部門のキーパーソンの離職」というリスクシナリオの場合、KRIとしては以下のようなものが考えられるでしょう。
- 研究開発部門のハイパフォーマー層の離職率
- 研究開発部門のエンゲージメントスコア
- キーポジションの後継者候補準備率
これらのKRIに「注意(黄色信号)」「危険(赤色信号)」といった具体的な閾値(トリガー)を設定し、人事データを継続的にモニタリングする体制を構築します。特定のリスクを「発生可能性」と「経営インパクト」の2軸で評価し、リスクヒートマップを作成することも有効な手段です。
ステップ3:予防策と危機対応計画の策定
最後に、KRIが閾値を超えた場合に発動するアクションプランを事前に策定しておきます。これには、リスクの発生そのものを防ぐ「予防策」と、リスクが顕在化してしまった後の影響を最小限に食い止める「危機対応計画」の両方が含まれます。以下は、キーパーソンの離職リスクに対する例です。
- 予防策の例
- 魅力的な報酬や挑戦できる新しい役割を用意しておくなど、戦略的なリテンションプランを策定する。
- 「その人でなければ分からない」という状況をなくすため、マニュアル作成や勉強会を開き、チーム全体で知識を共有しておく。
- 危機対応計画の例
- すぐに後任者を探し始められるよう、あらかじめ信頼できる人材紹介会社と連携し、緊急時に動いてもらう段取りを決めておく。
- 残されたメンバーでプロジェクトを止めないために、誰がどの業務を一時的に引き継ぐのか、役割分担をあらかじめ決めておく。
「守りの人事」から、事業を守る「戦略的人事」へ
人的資本開示を、リスクマネジメントというレンズを通して見つめ直すこと。それは、人事部門が単なる管理部門という「守り」の役割から、事業の継続性を担保し、企業の価値を未来にわたって守り抜く「戦略的」な存在へと脱皮することを意味します。人的資本可視化指針は、その変革を促すための、極めて実践的なツールと言えるでしょう。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の課題解決をサポートします。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。




