その開示データ、本当に経営に活かせていますか?
人的資本情報の開示義務化をきっかけに、投資家からの要請はますます高まっています。そのニーズに応えるため、多くの企業では、従業員エンゲージメントや離職率、研修時間といったデータについても、自主的に集計・報告されていることでしょう。
しかし、そのプロセスが、外部に提出するための「報告書づくり」で終わってしまってはいないでしょうか。それは、健康診断を受けたにもかかわらず、診断結果を詳しく見ずに放置しているようなものです。人的資本に関するデータは、まさに企業の組織としての「健康状態」を示す診断結果そのものです。
本コラムでは、人的資本開示のプロセスを、真に経営の質を高めるための「経営の健康診断」として機能させるための視点と、具体的な実践ステップを解説します。
なぜ「健康診断」という視点が重要なのか
経営者が日々感じる「現場の空気感」や「漠然とした不安」は、重要な経営判断の拠り所の一つですが、それだけでは不十分な場合があります。人的資本開示の取り組みは、こうした主観的な感覚を、客観的なデータで裏付け、あるいは覆すための絶好の機会となります。
「なんとなく不調」から「具体的な課題」へ
人的資本可視化指針が示す7つの分野は、組織の健康状態を多角的にチェックするための優れた診断項目です。
- エンゲージメントスコアは、組織の「活力・免疫力」
- 離職率や定着率は、「基礎体力」
- 人材育成への投資は、「将来に向けた筋力トレーニング」
これらの数値を定点観測することで、「最近、組織の活気がない気がする」といった主観的な感覚が、「特定の事業部で、若手層のエンゲージメントスコアが半年で15%低下している」という客観的で具体的な課題として特定できるようになります。
※人的資本可視化指針については、以下のコラムで解説しています。合わせてご参照ください。
「組織の健康」と「事業の健康」を繋ぐ
重要なのは、これらの「組織の健康」に関する指標が、「事業の健康」、すなわち財務的なパフォーマンスに影響を与えるという事実です。
例えば、エンゲージメントの低下は、単に従業員のモチベーションの問題に留まりません。それは、生産性の低下、顧客対応の質の悪化、製品・サービスのイノベーション停滞といった形で、遅かれ早かれ売上や利益の減少に繋がります。この関係を理解することで、人的資本への投資が、コストではなく事業成長に不可欠な戦略的投資であるという認識を経営全体で共有できます。
見るべきは「平均値」ではなく「分布とばらつき」
健康診断で重要なのが、全体の平均値だけでなく、個別の項目の異常値を見つけ出すことであるように、人的資本データで本当に見るべきは、全社の平均値ではありません。部署別、役職別、年齢層別、男女別といったセグメントごとの詳細なデータです。
例えば、会社全体のエンゲージメントスコアが70点という一見良好な結果だったとしても、内訳を見ると、営業部門が90点の一方で、事業の将来を担う研究開発部門が45点かもしれません。この深刻な問題は、平均値だけを見ていては見過ごされてしまいます。人的資本可視化指針を「健康診断書」として使いこなし、隠れた問題を特定することこそが、データドリブン経営の第一歩です。
「経営の健康診断」を実践する3ステップ
では、具体的にどのようにデータを活用し、組織の健康診断を実践すればよいのでしょうか。
ステップ1:定点観測の仕組みを構築し、「平常値」を把握する
まず、年に一度のデータ収集で終わらせず、重要な指標(KPI)を継続的に観測する仕組みを整え、自社の「健康の平常値」を把握することが重要です。
BIツールのダッシュボードや人事分析システムを活用し、四半期ごとなど、定期的に指標をレビューするサイクルを確立します。平常値がわかって初めて、異常が発生した際に「これは注意すべき変化だ」と迅速に気づくことができます。
ステップ2:セグメント分析で、「異常値」の原因を深掘りする
全体の数値に変化が見られた、あるいは特定の課題が疑われる場合には、セグメントごとに分析を行い、原因を深掘りします。
<例:若手の離職率が高い>
- 一次分析
全体の離職率のうち、入社5年目以下の若手層が占める割合が高いことを特定。 - セグメント分析
その若手層の中でも、特に「A事業部」の「入社3年目」の離職が突出していることを突き止める。 - クロス分析
A事業部の3年目社員のエンゲージメントサーベイ結果を見ると、「上司による支援」「キャリア成長の機会」の項目が著しく低いことが判明。 - 仮説の構築
これらのデータから、「A事業部では、現場のマネジメント層が多忙で、若手への指導やキャリア支援が不足している結果、成長実感を得られない3年目の社員が将来を不安視し、離職に至っているのではないか」という精度の高い仮説を立てることができます。
ステップ3:診断結果を経営会議で処方箋に繋げる
最も重要なのは、分析結果を人事部門の中だけで留めないことです。診断結果(データ分析)と処方箋(具体的な打ち手)をセットで経営会議の正式なアジェンダとし、経営陣と事業部門の責任者を巻き込んで議論します。
この場での問いは、「人事部、どうにかしろ」ではありません。「A事業部長、現場マネージャーの育成を支援するために、どのようなサポートが必要か」「この課題を放置した場合の事業への影響(採用・再教育コスト、機会損失)はCFOの視点からどう見積もられるか」といった、全社的な経営課題として議論し、具体的なアクションと投資判断に繋げることが不可欠です。
健康な組織こそが、持続的な価値創造の源泉である
人的資本開示の取り組みは、外部への報告義務であると同時に、自社の組織を内側から強く、健康にするための最高の機会です。人的資本可視化指針を「健康診断」のフレームワークとして活用し、データに基づいた組織運営のサイクルを回し始めること。それこそが、変化の激しい時代を勝ち抜くための、揺るぎない競争力の源泉となるでしょう。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社のデータ分析や組織診断の高度化をサポートします。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。