今さら聞けない「人的資本可視化指針」の本質と戦略的活用法
2023年3月期からの有価証券報告書での開示義務化をきっかけに、「人的資本経営」への注目は一気に高まりました。その中で頻繁に耳にするのが「人的資本可視化指針」という言葉です。多くの経営者やご担当者様が、この指針を参考に開示対応を進めてこられたことと存じます。
しかし、日々の業務に追われる中で、「そもそも、この指針は何を目指しているのか」「単なる開示項目のリストではないのか」といった根源的な問いをお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。本コラムでは、人的資本経営の羅針盤とも言えるこの指針について、その本質的な考え方と、企業価値向上に繋げるための戦略的な活用法を解説します。
そもそも「人的資本可視化指針」とは何か
人的資本可視化指針とは、2022年8月に内閣官房が示した、企業が人的資本について自主的に情報を整理し、外部へ発信していく際の「思考のフレームワーク」であり、「対話のたたき台」です。人的資本可視化指針はあくまで「指針」であり、企業に特定の項目を強制する「法律」や「規則」ではない、という点は押さえておきたいところです。
人材版伊藤レポートとの関係
この指針を理解する上で欠かせないのが、「人材版伊藤レポート」との関係性です。 両者の関係を端的に言えば、人材版伊藤レポートが人的資本経営の「理念を説く教科書」であるならば、人的資本可視化指針は「実践・開示のためのワークブック」と言えるでしょう。
経済産業省が公表した人材版伊藤レポートは、経営戦略と人材戦略をいかに連動させるべきかという経営のあり方そのものを問い、企業が目指すべき思想や全体像を示しました。それに対し、人的資本可視化指針は、レポートで示された理念を、投資家をはじめとするステークホルダーと対話できる具体的な「開示項目」に落とし込むための、実務的な手引きとして策定されました。
つまり、これら二つは一体のものであり、セットで理解することで、開示義務化の背景にある本質的な要請をより深く捉えることができます。
指針が示す「7分野19項目」の考え方
指針の中では、企業の人的資本を多角的に捉えるための観点として、「人材育成」「エンゲージメント」「流動性」など7つの分野と、それぞれの分野における具体的な19の開示項目が例示されています。具体的には、以下の表の通りです。
分野 | 項目 |
---|---|
分野 | 項目 |
人材育成 | リーダーシップ |
育成 | |
スキル・経験 | |
従業員エンゲージメント | 従業員エンゲージメント |
流動性 | 採用 |
維持 | |
サクセッション | |
ダイバーシティ | ダイバーシティ |
非差別 | |
育児休業 | |
健康・安全 | 精神的健康 |
身体的健康 | |
安全 | |
労働慣行 | 労働慣行 |
児童労働・強制労働 | |
賃金の公平性 | |
福利厚生 | |
組合との関係 | |
コンプライアンス・倫理 | コンプライアンス・倫理 |
これらは「この通りに開示しなさい」という命令ではなく、「自社の人的資本戦略を語る上で、このような観点がありますよ」というヒントと捉えるべきです。重要なのは、これらの項目を自社の文脈に引きつけて解釈することです。
人的資本可視化指針は、自社の「ストーリー」を語るための共通言語
私たちコトラは、人的資本可視化指針を、投資家をはじめとするステークホルダーと対話するための「共通言語」であると考えています。投資家は、この指針を一つの拠り所として、企業の非財務情報を比較・評価します。
しかし、それは決して「全社が同じ物差しで測られる」という意味ではありません。むしろ、この共通言語のフレームワークの中で、「いかに自社ならではの価値創造ストーリーを語るか」が問われています。他社と同じ項目をただ開示するだけでは、その他大勢に埋もれてしまいます。この指針を、自社の独自性を際立たせるためのツールとして使いこなす視点が不可欠です。
人的資本可視化指針を企業価値向上に繋げるための4ステップ
では、具体的にどのように人的資本可視化指針を活用すれば、単なる開示対応に終わらず、経営の質を高めることに繋がるのでしょうか。私たちは、以下の4つのステップが重要だと考えています。
ステップ1:経営戦略と人材戦略の接続(To-Beモデルの策定)
全ての出発点は、自社がどのような未来(To-Be)を目指すのかを定義することです。
- 中期経営計画の解読
自社の中期経営計画や成長戦略を読み解き、「DX推進」「グローバル市場への進出」「新規事業開発」といった、価値創造の源泉となる重要戦略テーマを特定します。 - 理想の人材ポートフォリオ定義
特定した戦略テーマを実行するために、どのようなスキル、経験、マインドセットを持った人材が、何人くらい必要になるのかを具体的に定義します。これが、自社が目指すべき理想の人材ポートフォリオ(To-Beモデル)となります。
ステップ2:現状(As-Is)の可視化とギャップ分析
次に、理想(To-Be)と現実(As-Is)の差を客観的に把握します。
- 現状の可視化
スキルマップ、組織サーベイ、タレントレビューなどの手法を用いて、現在自社にどのような人材が、どの部署に、どれくらい在籍しているのかを客観的なデータで可視化します。 - ギャップの特定
ステップ1で定義した「To-Beモデル」と、可視化した「現状(As-Is)」を比較し、不足しているスキルや人材層、あるいは過剰となっている部分を「ギャップ」として明確に特定します。このギャップこそが、取り組むべき最重要課題です。
ステップ3:ギャップを埋める施策(アクションプラン)の策定
特定したギャップを、具体的な打ち手へと落とし込みます。このアクションプランこそが、人的資本経営の中核です。
- 施策の立案
ギャップを埋めるために、「採用」「育成」「配置転換」「制度改定」といった観点から、具体的な人事施策を立案します。- 例1
DX人材のスキルギャップ(スキルが目標値と比べて低い)
→ 「データサイエンティストの中途採用強化」と「全社的なデジタルリテラシー向上のためのリスキリングプログラム導入」 - 例2
次世代リーダー層の不足
→ 「サクセッションプランの再構築」と「選抜型のリーダーシップ開発研修の実施」
- 例1
- 優先順位付け
すべての施策を同時に実行することは困難です。経営へのインパクトや実行可能性を評価し、取り組むべき施策の優先順位を決定します。
ステップ4:戦略的KPIの設定とPDCAサイクルの実行
最後に、アクションプランの進捗と効果を測定し、継続的な改善サイクルを回します。
- KPIの設定:「比較可能性」と「独自性」の両立
ここで初めて、人的資本可視化指針が「KPIのメニュー表」として活きてきます。KPIを設定する際、指針が重視する「比較可能性」と「独自性」という二つの視点を両立させることが極めて重要です。
- 比較可能性の担保
指針で示されている7分野19項目などの標準的な指標を用いることで、投資家が他社と比較しやすくなり、客観的な評価の土台となる「比較可能性」が担保されます。これは、ステークホルダーとの対話における必須要素です。 - 独自性の表現
一方で、ステップ1で特定した自社の経営戦略と直結した「独自性」のあるKPIを設定することで、他社との差別化要因や、自社特有の価値創造プロセスを具体的に示すことができます。
例えば、「新規事業開発を担う人材の輩出数」や「顧客満足度を向上させた従業員の比率」といった指標は、自社のストーリーを語る上で強力な武器となります。 - PDCAサイクルの実行
設定したKPIを定期的にモニタリングし(Check)、計画通りに進んでいなければ施策を修正します(Act)。このPDCAのサイクルを回し続けることで、人的資本経営は形骸化せず、着実に企業価値向上へと繋がっていきます。
指針は「義務」ではなく、戦略を磨く「機会」である
人的資本可視化指針は、開示義務化という流れの中で生まれた、企業が遵守すべき窮屈なルールではありません。それは、自社の経営戦略と人材戦略の繋がりを見つめ直し、独自の価値創造ストーリーをステークホルダーに伝えることで、企業価値向上に繋げるための強力なツールです。この指針を戦略的に活用し、開示義務化を、自社の経営を磨く絶好の機会へと転換してみてはいかがでしょうか。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の経営戦略・人材戦略と連動した情報開示の高度化をサポートします。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。