人的資本開示、過去の実績報告で終わっていませんか?
人的資本開示の義務化を受け、各社が様々な指標を開示しています。従業員数、平均勤続年数、女性管理職比率、研修時間…。これらの指標は、企業の「今」を切り取るスナップショットとして、一定の意味を持つでしょう。しかし、企業の経営者やIR担当者の皆様は、自社の開示情報が、未来の成長に対する期待感を醸成するものになっていると、胸を張って言えるでしょうか。
もし、貴社の人的資本開示が、以下のような過去または現在時点の報告に留まっているのであれば、その最も重要な役割の一つを見過ごしている可能性があります。
- 開示している情報が、過去の実績や現在の状況説明に終始している。
- 人的資本への投資が、コストとして捉えられがちで、将来のリターンにどう繋がるのかを説明できていない。
- 短期的な業績目標の達成が優先され、人材育成や組織文化の醸成といった長期的な取り組みの重要性を、社内外に伝えきれていない。
- 人的資本開示が、サステナビリティレポートの中の「お飾り」のようになってしまっている。
投資家をはじめとするステークホルダーが真に知りたいのは、企業の「過去」ではなく「未来」です。人的資本開示は、その未来を指し示す「羅針盤」としての役割を担うことができます。本コラムでは、人的資本開示を未来志向のコミュニケーションツールへと転換し、持続的な企業価値創造に繋げるための視点について論じます。
人的資本は、未来のキャッシュフローを生み出す「先行投資」
現代の企業価値評価において、PBR(株価純資産倍率)が1倍を割る企業が問題視されるなど、帳簿上の資産だけでは企業の真の価値を測れないことは、もはや常識です。ブランド、技術力、顧客基盤、そして組織文化といった「無形資産」こそが、将来のキャッシュフローを生み出す源泉であり、その中でも中核をなすのが「人的資本」です。
ケーススタディ:あるサービス業E社の課題
ここで、当社のご支援実績をもとに、あるサービス業E社のケースを例に考えてみましょう。
E社は、長年にわたり特定の専門分野で質の高いコンサルティングサービスを提供してきた企業です。各分野のプロフェッショナルである従業員が、顧客企業に深く寄り添い、長期的な信頼関係を築くことで安定した収益基盤を確立してきました。しかし近年、市場の成熟化とともに新規顧客の獲得に苦戦し、成長が鈍化していました。日々の業務に追われる中で長期的な人材投資は後回しになりがちで、人的資本開示も法定項目を記載するに留まっていました。
転機となったのは、ある機関投資家からの「貴社の最大の資産である従業員を、どう次の成長に繋げるのか?」という本質的な問いでした。この一言で、経営陣は自社のIRが未来を語れていないという事実に直面し、変革の必要性を痛感しました。
E社の課題に対するコトラの視点
このようなE社のケースに対し、私たちコトラは、以下のような視点で解決へのアプローチを構築することが有効だと考えます。
まず、E社のDNAとして根付いていた「顧客第一主義」といった価値観を、単なるスローガンではなく、イノベーションを生み出す原動力として再定義することが、解決への第一歩となります。そのためには、組織サーベイを通じて従業員の価値観を分析することにより、従業員がどのような時にやりがいを感じ、エンゲージメントが高まるのかを可視化することが有効です。
分析を通じて明らかになったインサイト、例えば「顧客からの感謝」や「チームでの成功体験」が従業員のエンゲージメントを最も高める要因である、といったことが分かれば、これらの行動を称賛・促進する社内制度の設計や、人的資本開示の戦略策定が可能になります。具体的には、以下のようなものが挙げられるでしょう。
- 施策
顧客への貢献やチームでの成功事例を称賛し、共有するための社内表彰制度「イノベーション・アワード」を創設。 - 開示方法
- このアワードの応募件数や、受賞事例が事業に与えたインパクト(顧客満足度の向上や新サービスの開発など)を、人的資本開示の新たなKPIとして設定。
- 「当社のイノベーションは、従業員の『顧客を喜ばせたい』という内発的動機から生まれます。この動機を最大化する組織文化への投資こそが、我々の持続的成長の鍵です」という力強いナラティブと共に発信。
未来志向の「人的資本開示」をデザインする3つの視点
E社のように、自社の未来の価値を語る人的資本開示を実践するためには、どのような視点が必要なのでしょうか。最後に、そのための3つのヒントを提示します。
視点1:自社の「価値創造ストーリー」を定義する
まず、「自社は、何を通じて社会に価値を提供し、それがどのようにして経済的価値に転換されるのか」という「価値創造ストーリー」を明確に言語化してください。このストーリーの中で、人的資本がどのような役割を果たしているのか(例:技術革新の担い手、ブランド価値の体現者など)を位置づけることが、全ての出発点となります。
視点2:未来の「ありたい姿」からバックキャストで検討する
次に、5年後、10年後の「ありたい姿」を思い描き、そこから逆算して、今、どのような人的資本への投資が必要なのかを考えます。例えば、「データサイエンスを活用した新事業を収益の柱にする」という未来像があるならば、「データサイエンティストの育成・採用数」や「全社員のデジタルリテラシー向上率」といった指標が、未来への進捗を示す重要なKPIとなります。
視点3:「非財務」と「財務」の繋がりを仮説で示す
「従業員のウェルビーイング向上」や「ダイバーシティの推進」といった非財務的な取り組みが、最終的に「生産性向上」や「企業収益の増大」といった財務的な成果にどう繋がるのか。この繋がりを、自社なりのロジックや仮説として提示します。
「Aという先行指標に投資することで、Bという中間成果が生まれ、最終的にCという財務的リターンに繋がる」という仮説を提示し、その進捗を継続的に報告する姿勢こそが、投資家からの信頼を獲得します。
人的資本開示は、未来を描く経営者のキャンバス
人的資本開示は、規制によって定められた義務ではありますが、その本質は、経営者自身が自社の未来をどのように描き、その実現に向けて最も重要な資産である「人」にどう投資していくのか、その覚悟とビジョンをステークホルダーに示すための、またとない機会です。
過去の延長線上で未来を語るのではなく、ありたい未来から現在を規定する。その未来志向の思考転換こそが、人的資本開示を単なる報告書から、持続的成長を牽引する強力な「羅針盤」へと昇華させると考えられます。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の価値創造ストーリーに基づいた、未来志向の人的資本開示高度化をサポートします。本コラムでご紹介したようなケースでお悩みの場合は、お気軽にお問い合わせください。




