その人的資本開示、投資家に「届いて」いますか?
有価証券報告書における人的資本開示の義務化から数年が経過し、多くの企業で開示内容の検討と更新が進んでいることと存じます。しかし、IR担当者や経営企画の責任者の皆様の中には、「開示したものの、投資家からの反応が薄い」「他社と似たような内容になってしまい、自社の魅力が伝わっているか不安だ」といった、漠然とした手応えのなさを感じている方も少なくないのではないでしょうか。
もし、以下のような状況に心当たりがあるなら、それは投資家との「対話」の機会を逸しているサインかもしれません。
- 開示している指標(KPI)について、投資家から「なぜこの指標なのですか?」という質問に、自信を持って答えられない。
- 人的資本開示の情報が、財務情報や事業戦略と切り離された、独立した報告項目になってしまっている。
- 同業他社の開示例を横並びで比較し、開示項目を決めている。
- アニュアルレポートや統合報告書のデザインは洗練されているが、そこに込められた「ストーリー」が語られていない。
これらの課題は、人的資本開示を「情報公開」という静的なイベントとして捉えている点に起因します。投資家が本当に知りたいのは、単なる数値データではありません。その数値の裏側にある、企業の独自の価値観、戦略、そして未来への意志です。本稿では、投資家との建設的な対話を生み出し、企業価値を正しく伝えるための人的資本開示のあり方について、考察していきます。
投資家が探しているのは「数字」の先にある「物語(ナラティブ)」
近年、ESG投資が主流となる中で、投資家の企業評価の目は劇的に変化しています。彼らは、短期的な財務パフォーマンスだけでなく、企業の持続可能性、つまり将来にわたって価値を生み出し続ける力を見極めようとしています。そして、その力の源泉こそが「人的資本」に他なりません。
なぜ「ナラティブ」が重要なのか
投資家は、人的資本開示から以下の3つの要素を読み取ろうとしています。
- 独自性(Uniqueness)
その企業ならではの強みは何か。なぜこの会社は勝ち続けられるのか。 - 一貫性(Consistency)
経営戦略、事業戦略、そして人材戦略が、一本の線として繋がっているか。 - 持続性(Sustainability)
その強みを将来にわたって維持・強化していくための仕組みがあるか。
これらの要素は、女性管理職比率や有給休暇取得率といった個別のKPIを並べるだけでは、決して伝わりません。必要なのは、自社の経営理念や存在意義(パーパス)を起点とし、事業戦略を経て、具体的な人材戦略とKPIに至るまでの一連の流れを、説得力のある「物語(ナラティブ)」として語ることです。このナラティブこそが、無数の企業の中から自社を選んでもらうための、強力な差別化要因となり得るのです。
ケーススタディ:あるIT企業B社の課題
ここで、当社のご支援実績をもとに、ある急成長IT企業B社のケースを例に考えてみましょう。
B社は、競合他社に倣い、従業員数や平均年齢、離職率といった基本的な情報を開示していました。しかし、IRミーティングでの投資家からの質問は短期的な業績見通しに集中し、自社の本当の強みである「優秀なエンジニア集団とその組織文化」が全く評価されていない、という強い危機感を抱えていました。「このままでは、我々の企業価値が正しく伝わらない」と感じた経営陣は、人的資本開示のあり方を根本から見直す必要に迫られていました。
B社の課題に対するコトラの視点
このようなB社のケースに対し、私ども株式会社コトラであれば、以下のような視点で解決へのアプローチを構築していきます。
まず、B社の「なぜイノベーションを生み出し続けられるのか」という価値の源泉を、投資家が納得できるロジックとストーリーで示すことを目指します。そのために、「心理的安全性に根差した、自律的な学習文化」というコンセプトをナラティブの核として設定することを提案します。
次に、組織サーベイなどを活用し、従業員の声に耳を傾けることで、そのコンセプトを裏付けるデータを収集・分析します。「失敗を許容し、挑戦を称賛する文化」や「同僚から学び、スキルを高めようとする意欲」が、高いエンゲージメントに繋がっていることを可視化します。
この分析に基づき、人的資本開示の指標を、以下のように従来の画一的なものから、より独自性・戦略性のあるものへと再設計することを支援します。
- 従来の指標:研修時間、資格取得者数
- 新たな指標例
- 心理的安全性スコア(部署別):挑戦しやすい風土の醸成度合いを測る。
- 社内勉強会の開催数と参加率:従業員主導の学習文化の活発度を示す。
- 新規事業提案における失敗許容件数:イノベーションへの挑戦を奨励する姿勢を具体化する。
これらのユニークな指標と、それを支えるストーリーを提示することで、B社のような企業の人的資本開示は、単なる情報公開から、投資家との本質的な対話を生むための戦略的なツールへと進化するでしょう。
自社の「ナラティブ」を構築するための実践的ステップ
B社のような変革は、決して特別なことではありません。どのような企業であっても、自社のDNAに根差した独自のナラティブを見つけ出し、発信することが可能です。ここでは、そのための具体的な3つのステップをご紹介します。
ステップ1:自社の「価値の源泉」を特定する
まず、IRや経営企画、人事の担当者が集まり、「我が社の提供価値の根源は何か?」「競合他社には真似できない、我々の強みは何か?」を徹底的に議論してください。それは、特定の技術力かもしれませんし、長年培ってきた顧客との信頼関係、あるいは独自の企業文化かもしれません。
この「価値の源泉」こそが、人的資本開示のナラティブを構築する上での揺るぎない指針となります。
ステップ2:「価値の源泉」と「人材」を結びつける
次に、特定した「価値の源泉」が、どのような「人材」によって支えられているのかを言語化します。
もし強みが「技術力」であれば、「特定の専門スキルを持つ人材の数や定着率」「研究開発費における人件費の割合」などが重要な指標になるでしょう。
あるいは、もし強みが「顧客との信頼関係」であれば、「顧客満足度調査における担当者の評価スコア」や「営業担当者の平均勤続年数」などが、その関係性の深さを示す証左となり得ます。
このように、自社の強みと人材を結びつけることで、人的資本開示の各指標に説得力と一貫性が生まれます。このプロセスは、自社が本当に大切にすべき人材像を再認識する機会にもなるはずです。
ステップ3:過去・現在・未来を繋ぐストーリーを紡ぐ
最後に、これらの要素を時間軸に沿って物語として構成します。
- 過去(Origin)
我々はどのような思いで創業し、どのような価値観を大切にしてきたのか。 - 現在(Present)
その価値観は今、どのような人材戦略や組織文化として息づいており、どのような成果(KPI)に表れているのか。 - 未来(Future)
これからどのような社会の変化を見据え、我々の強みをどう進化させ、持続的な成長を実現していくのか。
この過去・現在・未来を繋ぐストーリーラインがあることで、投資家は企業の歩みを立体的に理解し、その未来に期待を寄せることができるようになります。人的資本開示は、この壮大な物語を伝えるための、最も重要なチャプターの一つなのです。
人的資本開示は、投資家とのエンゲージメントの始まり
人的資本開示は、もはや単なる義務対応ではありません。それは、自社の無形の資産、すなわち企業価値の源泉を、最も重要なステークホルダーである投資家に対して開示し、対話を通じてエンゲージメントを深めるための、またとない機会です。
数字の羅列で終わるのではなく、その背景にある自社ならではの哲学と戦略を、情熱と論理を持って語ること。その先にこそ、真の企業価値評価と、持続的な成長への道が拓けていると考えられます。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の企業価値向上に繋がる人的資本開示の高度化や、投資家との対話を生むナラティブ構築をサポートします。本コラムでご紹介したようなケースでお悩みの場合は、お気軽にお問い合わせください。