人材戦略を「企業価値」として語れていますか?
「人的資本開示が義務化されたが、何をどのように開示すれば良いのか分からない」
「IR部門から、投資家に説明できる人材戦略のストーリーを求められている」
「人事の取り組みが、財務的な成果にどう結びついているのかを説明できない」
CHRO(最高人事責任者)や、経営企画・IRの責任者の皆様にとって、これらは喫緊の経営課題となっているのではないでしょうか。ESG投資の拡大を背景に、投資家は企業の持続的な成長力を測る上で、財務情報だけでなく、人的資本をはじめとする非財務情報をこれまで以上に重視するようになっています。
もはや、人材戦略は人事部門の閉じられた業務ではなく、経営戦略と一体となって企業価値を創造し、そのプロセスをステークホルダーに雄弁に語るべき、重要な経営アジェンダなのです。本コラムでは、この経営戦略と人材戦略の連動をいかにして企業価値向上に繋げるか、統合的なアプローチについて論じます。
成長の足枷となる「人材流出」:あるIT企業のIRの舞台裏
当社のご支援実績をもとに、ある急成長中のBtoBのSaaS企業D社のケースを例に考えてみましょう。D社は革新的なプロダクトで市場から高い評価を受け、株価も順調に推移していました。しかし、その裏側で、事業の根幹を支えるエンジニアの離職率の高さが課題となっていました。
決算説明会の質疑応答で、あるアナリストから鋭い質問が投げかけられました。 「採用コストが増加傾向にある一方、貴社のエンジニアの離職率が高いという話を耳にします。プロダクト開発の生命線である優秀な人材を、どう定着させる戦略をお持ちか、具体的なKPIと共にお聞かせください」
これに対し、担当役員は「競争力のある報酬制度と、自由闊達な企業文化の醸成に努めています」といった一般論を述べるに留まりました。エンゲージメントスコアの推移、主要な離職理由、リテンション施策の具体的な効果といった、説得力のあるデータやストーリーを示すことができなかったのです。
この応答は、投資家に「D社は成長の根幹に関わるリスクを管理できていない」という懸念を抱かせるには十分なものでした。人的資本の課題が、事業の持続可能性への疑念に繋がり、ひいては企業価値の評価に直接影響を与えかねないことを示す、象徴的な場面でした。
投資家との対話の軸となる「人材版価値創造モデル」
D社のような失敗を避け、投資家を納得させるストーリーを語るための強力なフレームワークが「人材版価値創造モデル」です。これは、人材への投資が、どのようなプロセスを経て、最終的に企業価値の向上に結びつくのかを論理的・視覚的に示したものです。
このモデルは、大きく分けて「インプット」「ビジネス活動」「アウトプット」「アウトカム」の4つの要素で構成されます。
- インプット(Inputs)
企業の人的資本の「原資」です。従業員数や人件費といった量的な側面に加え、従業員のスキル、経験、多様性、そして組織文化といった質的な側面が含まれます。D社であれば、「〇名の優秀なソフトウェアエンジニア群」がこれにあたります。 - ビジネス活動(Business Activities)
インプットを価値に転換するための、具体的な人事施策や取り組み(=投資)です。採用、育成、評価・報酬、エンゲージメント向上施策などが含まれます。D社が語るべきだったのは、まさにこの部分の具体的な戦略でした。 - アウトプット(Outputs)
ビジネス活動の直接的な結果として生じる、測定可能な成果です。主に人事領域のKPIがこれにあたります。例えば、「離職率の低下」「エンゲージメントスコアの向上」「次世代リーダー候補者の充足率」などです。 - アウトカム(Outcomes)
アウトプットがもたらす、最終的な企業価値への貢献です。これには、「生産性の向上」「イノベーションの創出」といった非財務的な価値と、「収益の増大」「顧客満足度の向上」「株主価値の向上」といった財務的な価値の両方が含まれます。
D社はこのモデルを用いることで、「優秀なエンジニア(インプット)に対し、管理職のコーチング研修やキャリアパスの整備(ビジネス活動)という投資を行う。その結果、エンゲージメントが向上し離職率が低下し(アウトプット)、プロダクト開発力が維持・強化され、将来の収益成長に繋がる(アウトカム)」という、説得力のある一貫したストーリーを示すことができたはずです。
企業価値を高める情報開示の実践プロセス
では、この価値創造ストーリーを、統合報告書や人的資本レポートといった形で効果的に開示するためには、何から始めるべきでしょうか。その具体的なプロセスを3つのステップで解説します。
ステップ1:開示目的の明確化と「マテリアリティ」の特定
開示ありきで情報を集めるのではなく、まず「誰に、何を伝え、どう行動してもらいたいのか」という開示の目的を定義します。ステークホルダー(投資家、従業員、顧客、取引先など)ごとに、伝えるべきメッセージの優先順位は異なります。
特に投資家を意識する場合、自社の経営戦略の実現にとって、最も重要性の高い人的資本の課題(=マテリアリティ)を特定することが不可欠です。
D社であれば、経営戦略の根幹が「プロダクト開発力」にあるため、「優秀なエンジニアの採用・定着」が最重要のマテリアリティとなります。このマテリアリティが明確になって初めて、開示すべきKPIや語るべきストーリーの焦点が定まるのです。
ステップ2:価値創造ストーリーを裏付ける「データ収集基盤」の構築
特定したマテリアリティについて、価値創造ストーリー(施策→成果)を裏付ける客観的なデータが必要になります。重要なのは、その場限りのデータではなく、継続的にデータを収集・分析できる体制(データ収集基盤)を構築することです。
D社の例で言えば、単に「全社の離職率」を開示するだけでは不十分です。「エンジニア職」「入社3年以内」といったセグメント別の離職率や、エンゲージメントサーベイにおける上司やキャリアに関する項目のスコア、研修の受講時間といったデータを定点観測します。
これにより、「管理職へのコーチング研修(施策)の結果、対象部署の上司評価スコアが向上し(KPI)、エンジニアの離職率が低下した(KGI)」という関係に基づいた、説得力のある説明が可能になります。
ステップ3:部門横断で発信する「統合ストーリー」の策定
人的資本の情報は、人事部だけで発信してもその価値は十分に伝わりません。CHRO(人事責任者)とCFO(財務責任者)、そしてIR部門が緊密に連携し、非財務情報(人事)と財務情報(業績)を統合したストーリーとして発信することが極めて重要です。
具体的には、CHROが「人材施策とその結果としてのKPI(離職率低下など)」を語り、CFOが「その取り組みがもたらす財務的インパクト(採用コスト削減額、生産性向上による利益貢献など)」を語ります。
このように、人事と財務が一体となって価値創造の論理を説明することで、投資家は「この会社は人材に戦略的に投資し、将来のリターンを生み出せる企業だ」という確信を深めることができます。開示レポート作成のための部門横断ワーキンググループを設置したり、決算説明会にCHROが同席したりすることも有効な手段と考えられます。
CHROは、企業価値創造のストーリーテラー
現代のCHROには、人事管理の専門家であると同時に、経営者の一員として、そして投資家との対話の最前線に立つストーリーテラーとしての役割が求められています。
人材への投資が、いかにして「離職率の低下」や「エンゲージメントの向上」といった無形の価値を生み出し、それが巡り巡って持続的な財務的成果に繋がるのか。この経営戦略と人材戦略の連動の物語を、情熱と論理、そしてデータをもって語ること。それが、資本市場からの信頼を勝ち取り、企業価値を最大化する鍵となるのです。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と、人的資本開示の高度化やISO30414認証取得支援の豊富な実績で、貴社の課題解決をサポートします。貴社独自の「人材版価値創造モデル」構築について、より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。