静かな離職が示す、企業経営の新たな危機
「優秀な人材から、静かに会社を去っていく…」
「採用コストは増え続ける一方、一向に離職率が改善しない…」
経営者や人事責任者の皆様にとって、このような悩みは尽きないものでしょう。人材の流動化が加速する現代において、従業員の定着は企業の競争力を左右する極めて重要な経営課題です。そして、その鍵を握るのが「従業員エンゲージメント」にほかなりません。
しかし、「エンゲージメント」という言葉が独り歩きし、サーベイの実施や福利厚生の充実といった対症療法的な施策に留まってはいないでしょうか。エンゲージメントサーベイを定常的に実施しているものの、その結果をどう改善に繋げるべきか、具体的な方法が分からないという声も少なくありません。
本コラムでは、従業員エンゲージメントを単なるコストではなく、企業の未来を創る「戦略的投資」と捉え、持続的な成長に繋げるための本質的な考え方と、明日から実践可能なアプローチを網羅的に解説します。本コラムが、貴社の人的資本経営を深化させる一助となれば幸いです。
従業員エンゲージメントの本質を捉え直す
従業員エンゲージメント向上の取り組みを成功させるための最初のステップは、その本質を正しく理解することから始まります。多くの企業で見られるのが、エンゲージメントと「従業員満足度」との混同です。この二つは似て非なる概念であり、この違いを明確に認識することが、効果的な施策を設計する上での重要なポイントとなります。
「満足度」と「エンゲージメント」の決定的違い
- 従業員満足度(Employee Satisfaction)
会社が提供する環境や待遇(給与、福利厚生、職場環境など)に対する「満足」の度合いを指します。これは、どちらかというと会社から与えられるものに対する評価であり、いわば「居心地の良さ」を示す指標です。
もちろん、従業員が安心して働ける職場環境を整備することは重要ですが、満足度が高いことが、必ずしも業績への貢献意欲に直結するわけではないという点に注意が必要です。満足度が高くても、「特に不満はないから、とりあえず今の会社にいる」という状態の従業員も含まれる可能性があります。
- 従業員エンゲージメント(Employee Engagement)
従業員が企業の掲げる理念やビジョン、戦略に深く共感し、その成功に向けて自らの力を最大限発揮したいと願う、自発的な「貢献意欲」を指します。組織と個人が、互いの成長のためにポジティブな関係性を築けている状態と言えるでしょう。
この従業員エンゲージメントこそが、生産性の向上やイノベーションの創出、そして離職率の低下に直接的な影響を与える、極めて重要な経営指標なのです。目指すべきは「居心地の良い会社」に留まるのではなく、従業員一人ひとりが「働きがいを感じ、自発的に貢献し、共に成長できる会社」へと進化することです。
そのためには、エンゲージメント向上施策をコストセンター的な発想で捉えるのではなく、未来の価値を生み出すための「戦略的投資」と位置づける経営の意思が不可欠となります。
参考)ワークエンゲージメントとは
やや本題からは逸れますが、この概念をより深く理解するために、学術的な定義にも触れておきたいと思います。経営や人事の実務で広く使われる「従業員エンゲージメント」は、学術研究の世界では「ワークエンゲージメント」という概念で精緻に議論されています。
ワークエンゲージメントは、以下の3つの要素が満たされた、ポジティブで充実した心理状態として定義されます。
- 活力(Vigor): 仕事から活力を得て、いきいきとしている状態。
- 熱意(Dedication): 自分の仕事に誇りとやりがいを感じ、熱心に取り組んでいる状態。
- 没頭(Absorption): 仕事に夢中になり、時間が経つのを忘れるほど集中している状態。
つまり、単に会社に満足しているだけでなく、仕事そのものに対して従業員がポジティブなエネルギーを注いでいる状態こそが、私たちが目指すべきエンゲージメントの本質と言えます。
なぜ今、従業員エンゲージメントへの投資が不可欠なのか?
従業員エンゲージメントへの投資は、具体的にどのようなリターンを企業にもたらすのでしょうか。これは、人的資本経営の観点からも極めて重要であり、その経営インパクトは多岐にわたります。
離職率の劇的な改善と採用・育成コストの削減
エンゲージメントの高い従業員は、自社に対する強い愛着や帰属意識を持ち、この会社で働き続けたいという意思が強い傾向にあります。これにより、退職に伴う直接的なコスト(採用費、引継ぎコスト)だけでなく、組織知の流出や、残された従業員のモチベーション低下といった間接的な損失も防ぐことが可能です。
特に、将来の経営を担うハイポテンシャル層や、特定の専門スキルを持つ人材のエンゲージメント低下は、経営上の重大なリスクです。優秀な人材の離職を防ぐことは、最も効果的な採用戦略とも言えるのです。転職市場が活発な現代において、従業員の定着を図ることは守りの施策であると同時に、攻めの経営戦略の基盤となります。
生産性の向上とイノベーションの創出
エンゲージメントの高い従業員は、自身の業務に誇りを持ち、役割以上の貢献をしようと主体的に行動します。このような自発的な行動は、業務プロセスの改善提案や、顧客へのより質の高いサービスの提供に直結します。
また、心理的安全性が確保された職場では、従業員が失敗を恐れずに新しいアイデアを発信し、挑戦することが可能になります。結果として、組織全体の生産性が向上し、イノベーションが生まれやすい土壌が育まれるのです。
従業員エンゲージメントは単なる精神論ではなく、具体的な業績となって表れる経営指標と言えるでしょう。
企業理念の浸透と強固な組織文化の醸成
従業員エンゲージメントの根幹には、企業の理念やビジョンへの「共感」があります。経営が示す方向に全従業員が納得し、信頼を寄せている状態は、組織としての一体感を生み出します。理念が社内に深く浸透することで、従業員は日々の業務に大きな意味を見出し、それがエンゲージメントの向上に繋がります。
この好循環は、単なるルールや制度だけでは実現できない、強固でポジティブな組織文化を形作ります。従業員間の信頼関係も深まり、部門を超えた連携がスムーズになるなど、組織運営全体にも良い影響をもたらします。
レピュテーションの向上と採用競争力の強化
従業員が自社を誇りに思い、活き活きと働く姿は、自然と社外にも伝わります。現社員や元社員によるポジティブな口コミやSNSでの発信は、採用市場における強力なブランディングとなり、優秀な人材を惹きつける磁石のような役割を果たします。
求職者が企業の情報を得る手段が多様化する中で、「実際に働いている人が自社をどう感じているか」という情報は、何よりも雄弁な企業紹介となります。高い従業員エンゲージメントは、採用活動における最大の武器となり得るのです。
戦略的投資としての従業員エンゲージメント:実践的アプローチ
では、従業員エンゲージメントを「戦略的投資」と位置づけた上で、具体的にどのような方法で取り組むべきなのでしょうか。大規模な制度改革の前に、まずは組織の状態を正しく把握することから始めることをおすすめします。ここでは、実効性の高い4つのステップを紹介します。
【Step1:「把握」から始める】組織の現状を正しく知るための調査と分析
効果的な施策を打つための第一歩は、現状を正確に把握することです。多くの企業がエンゲージメントサーベイ(調査)を導入していますが、その結果を十分に活用できていないケースが散見されます。重要なのは、調査結果から組織の強みと課題を具体的に特定し、次のアクションに繋げることです。そのためにも、以下の4つのポイントに注意してください。
- 定期的・継続的な測定
エンゲージメントは常に変動するものです。年1回といった形式的な調査に留めず、半期に一度、あるいは四半期に一度など、定期的に測定することで変化の兆候を捉え、迅速な対応が可能になります。
- 属性別の多角的な分析
全社の平均値を見るだけでは、本質的な課題は見えてきません。部署、役職、年齢層、勤続年数といった属性別にデータを分析し、「どの層に」「どのような課題が」潜んでいるのかを具体的に把握することが重要です。
- 他の人事情報との関連分析
サーベイ結果を離職率、残業時間、業績評価、ハイパフォーマーの分布といった他の人事情報と掛け合わせて分析することで、エンゲージメントと経営指標との因果関係をより深く理解できます。例えば、「エンゲージメントスコアが低い部署は、離職率も高い」といった具体的な関連が見つかれば、取り組むべき課題の優先順位が明確になります。
- フリーコメントの丁寧な分析
数値データだけでなく、従業員の生の声であるフリーコメントには、課題解決のヒントが詰まっています。テキストマイニングなどの手法を活用しつつ、一つひとつの意見に真摯に目を通すことが、従業員の信頼を得る上でも不可欠です。
【Step2:「対話」で育む】心理的安全性を土台とした関係性の構築
エンゲージメントの根幹は、良質なコミュニケーション、とりわけ上司と部下の信頼関係にあります。サーベイによって課題が可視化された後は、現場での対話を通じて、課題の背景にある従業員の「感じていること」を理解し、共に解決策を探るプロセスが欠かせません。例えば、以下のような取り組みをおすすめします。
- 1on1ミーティングの「質」の向上
単なる業務の進捗確認の場ではなく、部下のキャリア観や価値観、悩みや関心事に真摯に耳を傾ける「対話」の時間を設けることが重要です。これにより、従業員は「自分のことを理解し、応援してくれている」と感じ、上司や会社への信頼を深めます。これが心理的安全性の醸成に繋がり、エンゲージメントを高める土台となります。
- チーム単位での対話の場の設計
1on1だけでなく、チームミーティングやワークショップといった場で、チームの目標や課題、お互いの仕事への思いなどを共有する機会を設けることも有効です。チームの一員としての連帯感や一体感が、従業員の帰属意識や愛着を高めることに繋がります。
- 社内イベントの戦略的活用
全社総会や懇親会といったイベントも、従業員エンゲージメントを高めるための重要な施策です。経営陣がビジョンを直接語る場を設けたり、部門を超えた従業員同士の繋がりを促進したりと、目的を明確にしたイベントを設計することがポイントです。
【Step3:「仕組み」で支える】成長実感と貢献意欲を引き出す制度設計
従業員は、自らの成長を実感できた時に、仕事へのやりがいや貢献意欲を強く感じます。対話を通じて個々の成長意欲を把握した上で、それを後押しする仕組みや制度を設計することが、持続的なエンゲージメント向上に繋がります。制度設計のポイントは、以下の3つです。
- 納得感のある目標設定と評価制度
会社の目標と個人の目標が明確に関連付けられ、その達成プロセスと結果が公正に評価される仕組みは、従業員のモチベーションを大きく左右します。本人の頑張りを具体的に承認し、成長に繋がる質の高いフィードバックを行う文化を醸成することが重要です。
- キャリアパスの透明化と成長機会の提供
従業員が「この会社で働き続ければ、こう成長できる」という未来像を描けるよう、多様なキャリアパスを提示することが求められます。挑戦的な役割や新たな学習機会(研修、資格取得支援など)を積極的に提供することも、成長実感に繋がる有効な策です。
- 企業理念を体現する行動の称賛
企業の理念やバリューを体現した従業員の行動を、具体的に発見し、称賛する仕組み(表彰制度など)を導入することも、理念浸透とエンゲージメント向上の両面で効果的です。どのような行動が自社にとって価値があるのかを全社で共有することで、望ましい組織文化が形成されていきます。
【Step4:「発信」で繋ぐ】経営と現場の心を一つにするメッセージング
従業員エンゲージメントを高める上で、経営層からの継続的かつ一貫したメッセージ発信は不可欠な要素です。自社がどこへ向かっているのか(ビジョン)、何を大切にしているのか(バリュー)を、経営層が自らの言葉で、情熱をもって繰り返し語ることが、従業員の心を動かします。具体的には、次のような取り組みが効果的でしょう。
- 透明性の高い情報開示
会社の業績や経営状況、今後の戦略といった情報について、可能な限りオープンに従業員と共有することが、経営への信頼を醸成します。従業員は、自分が会社の大きな目標にどう繋がっているのかを理解することで、日々の業務に意味を見出し、エンゲージメントを高めることができます。
- 多様なチャネルの活用
全社朝礼やタウンホールミーティングといった直接対話の場だけでなく、社内報やイントラネット、動画メッセージなど、多様なチャネルを活用して、あらゆる機会にメッセージを届ける取り組みが有効です。繰り返し触れることで、経営の思いが社内に浸透していきます。
これらの取り組みは、一度実施して終わりではありません。把握(調査)→対話→仕組み化→発信というサイクルを継続的に回し、従業員の声に耳を傾けながら改善を繰り返していくことが、真に「働きがいのある」職場、エンゲージメントの高い組織文化を創り上げる唯一の方法と言えるでしょう。
従業員エンゲージメントは、企業の未来を映す鏡
本コラムでは、従業員エンゲージメントをコストではなく「戦略的投資」と捉える重要性と、その具体的な実践方法について論じてきました。エンゲージメントへの投資は、短期的な離職率の改善に留まらず、生産性の向上、イノベーションの促進、そして採用競争力の強化といった、企業の持続的成長に不可欠な経営基盤を築く活動です。
従業員一人ひとりが自らの仕事に誇りを持ち、会社と共に成長できると信じられる組織。そのような高いエンゲージメントを持つ企業こそが、不確実な時代を乗り越え、未来を切り拓いていくことができるのではないでしょうか。エンゲージメント向上への取り組みは、従業員一人ひとりが自発的に「この会社で働いていることを誇りに感じる」という状態を目指す、未来への希望そのものなのです。
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