人的資本KPIの戦略的設計|投資家に響くストーリーと人的資本インパクトパス

開示義務化の先にある「ストーリー」の欠如

人的資本情報の開示が義務化され、多くの企業が統合報告書や有価証券報告書でのデータ開示に取り組んでいます。しかし、経営者や人事責任者の方々からは、このような切実な声が聞かれます。

「他社の事例を参考にKPIを並べてみたが、投資家からの反応が薄い」
「現場が数字作りに疲弊しており、経営改善につながっている実感がない」

なぜ、多大な労力をかけて開示しているにもかかわらず、手応えが得られないのでしょうか。その根本原因は、開示内容が「単なる数字の羅列」や「施策の紹介」に留まり、「人への投資が、いかにして企業価値向上につながるのか」という独自の「ストーリー」が欠如している点にあります。

人的資本開示において、他社のKPIを形式的に模倣するだけの手法はもはや通用しません。企業に求められているのは、自社の成長シナリオと、それを裏付けるKPI(重要業績評価指標)のセットです。本コラムでは、開示要請への対応という受動的な姿勢から脱却し、自社の成長ストーリーを納得させるための、戦略的なKPI設計のアプローチについて考察します。

「点」ではなく「線」で捉えるKPI設計

成長ストーリーという全体像(線)を描かないまま、KPIの設定を進めようとすると、多くの企業はある罠に陥ります。それが、経営の実態を伴わない「形式的な目標達成」の罠です。

例えば、「女性管理職比率」や「男性育休取得率」といった個別の指標を目標に掲げ、その達成だけに奔走してしまうケースがこれにあたります。もちろん、これらはダイバーシティ推進の観点から重要な指標です。しかし、それが「なぜ自社の持続的な成長に必要なのか」という文脈から切り離されてしまっては、本来の目的を見失い、形式的に数値を達成することだけが目的化してしまいます。

経営戦略と「あるべき姿」の明確化

では、この「形式的な目標達成」の罠から抜け出し、経営に資する指標を設定するにはどうすればよいのでしょうか。その第一歩は、手元のデータを集計することではありません。まずは経営戦略の実現に必要な「あるべき人材ポートフォリオ(To-Be)」を定義することから始まります。

これは「いつまでに、どの事業領域に、どのようなスキルセットを持った人材が、何人必要か」という具体的な構造の定義です。この理想のポートフォリオと、現在の組織の状態(As-Is)を照らし合わせることで、初めて「どの層が何人不足しているのか」「どのスキルが欠如しているのか」という量的・質的な乖離(ギャップ)が明確になります。

この構造的なギャップこそが、経営として優先的に解決すべき重要課題(マテリアリティ)です。KPIとは本来、このギャップ解消に向けた進捗を定量的に測る指標であるべきでしょう。例えば、急速なデジタル化を進める企業であれば、「DX推進に必要なプロジェクトマネージャーが〇名不足している」という具体的なギャップが特定され、それを埋めるための「採用数」や「育成完了数」が必然的にKPIとして設定されるはずです。

独自のストーリー(ナラティブ)設計とインパクトパス

課題が特定できたら、次は解決に至るまでの道筋、すなわち「人的資本への投資がいかにして企業価値向上につながるか」という価値創造の「経路」を言語化します。このシナリオを可視化したものが「人的資本インパクトパス」です。

人的資本インパクトパスは、特定したギャップをどのように埋め、それが最終的にどう企業価値に貢献するかを示す設計図です。一般的には、以下の流れでストーリーを構築します。

  1. Input(投資) & Activity(活動)
    特定されたギャップを埋めるための具体的なアクションです。人材育成費の投入や研修の実施、採用活動などがこれに当たり、ここでの活動量や投資量をKPIとして測定します。
  2. Output(結果)
    活動によって得られた直接的な成果(例:スキル習得者数、資格取得数)です。活動が計画通りに進捗しているかを確認します。
  3. Outcome(成果)
    組織の状態変化(例:エンゲージメント向上、離職率低下、イノベーション創出)です。ここで初めて、ギャップが解消された状態が示されます。
  4. Impact(実現する価値)
    最終的な財務価値・企業価値への貢献(例:営業利益の増加)です。

このように、ギャップ解消に向けた投資(Input/Activity)が、どのような成果(Output/Outcome)を経て企業価値(Impact)につながるのかを一本の線でつなぐことで、投資家に対する説得力は飛躍的に高まります 。

実践的なKPI運用のための視点

ストーリーを描いた後は、それを運用に乗せるための具体的な指標選定が必要です。ここでは、特に重要性が高いと思われるいくつかの視点をご紹介します。

「量」と「質」の両立

指標を設定する際、単なる活動量(Input/Activity)の測定で満足してしまうケースが散見されます。しかし、インパクトパスで見た通り、重要なのはその活動がどのような変化をもたらしたかという「質(Output/Outcome)」です。

これを人材育成の領域に当てはめて考えてみましょう。 ここでは、研修への参加率や研修時間といった「量」のKPIだけでなく、その成果を測る「質」のKPIを組み合わせることが重要です。

例えば、「一人当たり平均研修時間」や「年間研修費用」といった投資量を示す指標に加え、「資格取得支援制度の利用人数(利用者のうち、実際に資格を取得した人数)」や、さらに踏み込んで「戦略人材の充足率」などを組み合わせることで、投資の実効性をアピールできます。

リスク管理としてのKPI

人材への投資対効果を高める「価値創造」の視点に加え、組織の足元を固める「リスク管理」の視点も忘れてはなりません。特に労働慣行やコンプライアンスは、企業の存続と信頼を支えるガバナンスの基盤そのものです。

例えば、ハラスメント等の通報窓口への相談件数(提起された苦情の種類と件数)などは、件数がゼロであればよいというものではなく、一定の相談件数があり、それに対して適切に対処しているかが重要視されます。 リスク情報を透明性高く開示することは、ネガティブな要素ではなく、長期的には企業の信頼性とリスク管理能力の高さを証明することにつながります。

PDCAサイクルと対話への活用

KPIは一度設定して終わりではありません。設定したKPI間の相関関係を分析し、仮説の妥当性を検証するPDCAサイクルを回すことが不可欠です。

例えば、エンゲージメントスコアが向上したにもかかわらず、離職率が下がらない、あるいは生産性が上がらないといった場合、当初描いたインパクトパスのロジックにズレがある可能性があります。このズレを分析し、修正していくプロセスそのものが、人的資本経営の高度化を意味します。

こうして磨き上げられたロジックを、統合報告書や有価証券報告書に「当社の価値創造プロセス」として開示し、投資家との対話に活用することで、市場からの正当な評価獲得につなげることができるのです。

企業の「らしさ」を語るために

人的資本情報の開示において、万人に共通する正解はありません。業種や成長フェーズ、そして企業文化によって、重視すべきKPIは異なるからです。 だからこそ、他社の模倣ではなく、自社の経営戦略に基づいた独自のストーリーを構築することが重要です。ISO 30414などの国際規格も参考にしつつ、自社の文脈に合わせたKPIを設計することが求められます。

「人材」はコストではなく、価値を生み出す源泉です。その価値を正しく測定し、磨き上げ、ステークホルダーに伝えていくこと。それこそが、これからの企業経営に求められる本質的な力と言えるでしょう。

▼ 領域別の主要KPIと計算例を網羅した資料はこちら

本コラムで解説したKPI体系の構築ステップや「人的資本インパクトパス」の開示事例、採用・育成・エンゲージメントなど領域別の主要指標をまとめた『人的資本KPI大全』をご用意しました。指標選びや計算方法に悩む時間を削減し、説得力ある開示資料を作成するための手引きとしてご活用ください。

★ こんなお悩みをお持ちの方におすすめ
 ・どの領域に、どのようなKPIがあるのか?
 ・このKPIはどのように計算すればよいのか?
 ・先進企業はどのようなKPIを、どのように開示しているのか?

株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の課題解決をサポートします。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。

この記事を書いた人

kotora

kotora

コトラ(人的資本チーム)

経営戦略に連動した「動的な人材ポートフォリオ」の構築から、「採用」「育成」といった人材マネジメントの実践まで、人的資本経営を一気通貫で支援しています。

コンサルタント紹介

杉江 幸一郎
ディレクター ISO30414リードコンサルタント

東京大学経済学部経営学科卒。大手メーカー、通信事業者、IT企業など上場事業会社にて経営企画、事業戦略、新規事業立ち上げ等の責任者を歴任。上場企業取締役、CISO および ISO事務局等も担当。

コトラでは、ISO30414を始めとした人的資本経営のコンサルティングに従事。ISO30414リードコンサルタント。ESG情報開示研究会、人的資本経営コンソーシアム、地方創生SDGs官民連携プラットフォーム会員。

X(旧Twitter):@Kotora_cnsl


蘇木 亮太
コンサルタント ISO30414リードコンサルタント

同志社大学法学部卒。大手教育系企業でのコンサルタント経験を経て、金融系スタートアップに入社。 組織・人事企画チームに所属し、エンゲージメント向上施策やDE&I推進、研修開発、人事制度運用等を担当。

コトラでは、有価証券報告書・統合報告書における人的資本開示、ISO30414、人事組織コンサル等に従事。ISO30414リードコンサルタント資格/日本ディープラーニング協会G検定保有者。


大西 裕也
コンサルタント ISO30414リードコンサルタント

神戸大学大学院経済学研究科卒。教育経済学を専攻。

コトラでは、ISO30414認証取得支援及び人的資本開示動向のリサーチ、人事データ分析・レポート作成等に従事。

DX推進パスポート(G検定、データサイエンティスト検定、ITパスポート)、一種外務員資格取得者。


サービスについての疑問や質問、
その他お気軽にお問い合わせください!