その人的資本データ、本当に「信頼」できますか?
「人的資本開示の義務化に対応するため、必要なデータを集計したが、各部署から集めたExcelファイルのフォーマットはバラバラ。手作業での集計に膨大な時間がかかった上、データの正確性にも不安が残る」。
これは、人的資本開示に取り組む多くの企業の人事・経営企画担当者が直面している、極めて現実的な課題ではないでしょうか。
戦略的な人的資本開示を行い、投資家からの信頼を勝ち取るためには、その土台となるデータの信頼性、すなわち「データガバナンス」が不可欠です。しかし、現実には多くの企業で、以下のようなデータ基盤に関する深刻な問題を抱えています。
- 従業員の基本情報、勤怠、給与、評価、スキルといった人事データが、異なるシステムに分散して管理されている(サイロ化)。
- データの定義や更新ルールが部署ごとに異なり、全社で「これが正しく最新のデータである」と誰もが信頼できる、統一された情報源がない。
- 人的資本開示に必要なデータを収集するたびに、多大な手作業が発生し、人事部門が疲弊している。
- 現状のデータ基盤では、開示項目を増やすことや、より高度な分析を行うことは困難だと感じている。
これらの課題を放置したままでは、人的資本開示は砂上の楼閣となりかねません。それどころか、誤ったデータに基づいた意思決定は、経営を誤った方向へ導くリスクさえはらんでいます。本コラムでは、人的資本開示を確かなものにし、データドリブンな人材戦略への進化を遂げるために不可欠な「データ基盤」構築の要点と、そこに潜む罠について解説します。
ケーススタディ:ある老舗製造業D社の課題
戦略的なデータ活用の第一歩は、信頼できるデータを一元的に収集・管理する基盤を構築することです。しかし、なぜ多くの企業で人事データはバラバラに管理され、「サイロ化」してしまうのでしょうか。その背景には、組織の歴史的な経緯や、システム導入のあり方が深く関係しています。
ここで、当社のご支援実績をもとに、ある老舗製造業D社のケースを例に考えてみましょう。
D社は、長年の歴史の中で、事業部ごとに独立した人事管理・勤怠管理の仕組みが運用されていました。人的資本開示の義務化を受け、本社の人事部が全社の男女別賃金差異や離職率を算出しようとした際、この問題が顕在化しました。
各事業部から提出されるデータは、Excelのフォーマットも、従業員IDの採番ルールもバラバラ。A事業部の「退職者」の定義と、B事業部の「退職者」の定義が異なっている、といった事態も発覚しました。人事部の担当者数名が、数週間かけてデータのクレンジングと名寄せ作業に追われ、なんとか開示には間に合わせましたが、担当者は疲弊しきっていました。
さらに経営陣からは、「今後は、各工場の生産性と従業員のエンゲージメントの相関関係を分析したい」「次世代リーダー候補となる技術者のスキルマップを可視化したい」といった、より高度な要求が寄せられていました。このようなケースでは、担当者は「現状のデータ管理体制では、これらの要求に応えるのは不可能だ」と、強い危機感を覚えていらっしゃることでしょう。
D社のこの事例は、人的資本開示が、企業のデータマネジメント能力を白日の下に晒す「リトマス試験紙」となっていることを示しています。
「戦略的人事」を実現するデータ基盤構築への道筋
このようなD社のケースに対し、私たちコトラは、以下のような視点で解決へのアプローチを構築することが有効だと考えます。
ステップ1:現状の可視化と「理想像」の共有
まず取り組むべきは、現状のデータ管理の全体像を可視化することです。「誰が、どのシステムで、どのような人事データを、どのように更新しているのか」を一枚のマップに描き出すことから始めます。この作業を通じて、データの重複や分断、手作業による非効率な業務プロセスが明らかになります。
次に、人事、経営企画、情報システム部門、そして事業部門のキーパーソンが集まり、「将来、どのような人材データを活用して、どのような意思決定を行いたいか」という「理想像(To-Be)」を共有する場を設けることをご提案します。
例えば、「動的な人材ポートフォリオを構築し、事業計画に基づいた最適な人員配置をシミュレーションしたい」「スキルデータに基づき、個々の従業員に最適化されたリスキリングプランを推奨したい」といった具体的なユースケースを議論することが重要です。この理想像の共有こそが、全社的な協力体制を築くための第一歩となります。
ステップ2:スモールスタートで始めるデータ統合
理想像の実現に向けて、いきなり大規模なシステム刷新を目指すのは現実的ではありません。まずは、人的資本開示で優先度の高い指標や、経営インパクトの大きい分析に必要なデータに絞って、統合・可視化をスモールスタートで始めることを推奨します。
例えば、多くの企業で課題となる「スキルデータ」であれば、まずは基幹事業を担う一部門の従業員を対象に、スキル項目の定義と棚卸しを行い、タレントマネジメントシステム等のツールに入力してみる、といったアプローチが考えられます。
ここで重要なのは、完璧を目指すのではなく、まずは「データを一元化し、活用する」という成功体験を小さくても作ることです。この成功体験が、次のステップへの投資判断を促す強力な材料となります。
ステップ3:データガバナンス体制の構築
ツールの導入と並行して、あるいはそれ以上に重要なのが、データガバナンス、すなわちデータを適切に管理・運用するためのルールと体制を構築することです。
- データオーナーの任命
各人事データ(例:評価データ、スキルデータ)の品質と管理に責任を持つ担当者を明確にする。 - データ定義の標準化
「離職率」「管理職」といった用語の定義を全社で統一し、ドキュメント化する。 - 更新プロセスのルール化
誰が、いつ、どのような手順でデータを更新するのかを明確に定める。
こうした地道なルール作りが、データの信頼性を担保し、人的資本開示の数値を揺るぎないものにします。データ基盤の構築は、単なるシステム導入プロジェクトではなく、企業のデータ文化そのものを変革する取り組みであると捉えるべきです。
データ基盤は、未来の企業価値を支えるインフラ
人的資本開示への対応は、多くの企業にとって、自社のデータ管理の脆弱性を直視するきっかけとなったはずです。しかし、これを単なる「課題」として捉えるのではなく、未来の成長に向けた「投資の機会」と捉えることが重要です。
整備されたデータ基盤は、人的資本開示の業務を効率化するだけでなく、より精緻な要員計画、効果的な人材育成、戦略的な人員配置を可能にし、企業の競争優位性を直接的に高める経営インフラとなります。このインフラへの投資を惜しまないことこそが、真の人的資本経営を実践し、持続的な企業価値向上を実現するための、経営者の重要な責務であると考えられます。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の人的資本開示を支えるデータ基盤の構想策定から、動的な人材ポートフォリオの構築支援まで、戦略的人事の実現をサポートします。本コラムでご紹介したようなケースでお悩みの場合は、お気軽にお問い合わせください。