有価証券報告書の作成、年に一度の義務になっていませんか?
2023年3月期決算より、有価証券報告書における人的資本情報の開示が義務化されました。経営者や人事、IR担当者の皆様におかれましては、対応に追われたご経験も記憶に新しいことと存じます。
しかし、その対応は、義務対応としての「守りの一手」に留まってはいないでしょうか。開示項目を埋め、他社事例を参考に体裁を整える。その作業が、年に一度の義務的なタスクと化しているとしたら、それは非常にもったいないことかもしれません。
本来、人的資本情報の開示は、自社の最も重要な資産である「人」に関する戦略を社内外に示し、ステークホルダーとの建設的な対話を促すための絶好の機会です。これを単なるコストと捉えるか、未来への投資と捉えるか。その分水嶺に、多くの企業が立たされているのが現状と言えるでしょう。
本コラムでは、有価証券報告書を「攻めの武器」へと転換し、企業価値向上に繋げるための視点について考察します。
開示はしたものの、手応えがない。A社の抱えるジレンマ
当社のご支援実績をもとに、ある中堅の電子部品メーカーA社のケースを例に考えてみましょう。
A社は、開示義務化の初年度、コンサルティングファームの提供するテンプレートを活用し、迅速に有価証券報告書の開示項目を埋めました。女性管理職比率、男女間賃金格差、男性育休取得率といった定められた指標を網羅し、体裁としては決して見劣りするものではありませんでした。
しかし、IR担当者が投資家との対話に臨んだ際、手応えのなさを感じることになります。投資家からの質問は、「なぜ、そのKPIなのですか?」「貴社の事業戦略と、この人材戦略にどのような繋がりがあるのですか?」といった、より本質的なものが多かったのです。A社の有価証券報告書には、指標の羅列はあるものの、その背景にあるストーリーや戦略的な意図が欠けており、投資家の関心を惹きつけることができませんでした。
さらに、競合他社が人的資本経営の推進を戦略的にアピールする中、A社の画一的な開示内容は、アナリスト評価やESG格付けにおいても、相対的に低い評価に留まる要因となり始めたのです。
A社のケースは、決して特別なものではありません。開示を「目的」としてしまった結果、その先にある企業価値向上という本来の「目標」を見失ってしまう。多くの企業が、同様の課題に直面していると考えられます。
問われる開示ストーリーと連動性
「何を」開示するかより「なぜ」開示するかが重要
投資家をはじめとするステークホルダーが知りたいのは、単なる数値データそのものではありません。その数値を通じて、企業がどのような未来を描き、その実現のために「人」という資本をどのように活かそうとしているのか、という一貫したストーリーです。
多くの企業で散見されるのは、このストーリーとデータの分断です。例えば、「人材育成」を重要課題として掲げながら、開示されるデータが女性管理職比率だけ、というケースです。これでは、企業が本気で人材育成に取り組んでいるのか、その本気度は伝わりにくいでしょう。
本当に伝えるべきは、次のような一貫した論理の流れです。
- 自社のパーパスと経営戦略
どのような社会価値を創造しようとしているのか。 - 戦略実現のための人材戦略
そのために、どのような人材が必要で、どのように育成・配置していくのか。 - 人材戦略を映すKPI
戦略の進捗を測るための指標は何か。 - 現状と目標、そして具体的なアクション
KPIの現状値と目標値のギャップを、どのような施策で埋めていくのか。
この論理的な繋がりがあって初めて、有価証券報告書に記載された一つひとつのデータが意味を持ち始め、説得力のあるストーリーとして機能すると考えられます。
開示から「ナラティブ」へ:投資家との対話を生むストーリー構築
A社の課題の本質は、個々のデータが正しいかどうかではなく、それらが投資家の納得を引き出す一つの「ナラティブ(物語)」として構成されていなかった点にあると考えられます。投資家は、単発の指標ではなく、企業の価値創造ストーリー全体に投資します。
そこで重要になるのが、開示情報を「報告」と捉えるのではなく、投資家との「対話の土台」と捉え直すナラティブ・アプローチです。 これは、ただ情緒的な物語を語るということではありません。自社の経営戦略における人的資本の位置づけを明確にし、「なぜ当社にとってこの人材戦略が重要で、その進捗を測るためにこのKPIを設定しているのか」という論理の背骨を、力強く提示することです。
例えば、A社のような電子部品メーカーであれば、「技術革新のスピードが競争優位の源泉である」という経営戦略から、「トップエンジニアの育成と定着が最重要課題」という人材戦略に繋ぎ、その証左として「エンジニア一人当たりの研修投資額」や「技術職のエンゲージメントスコア」といったKPIを開示する。このように、戦略とKPIが一本の線で繋がったナラティブを構築することで、開示情報は初めて説得力を持ち、投資家との建設的な対話の扉を開くことができるのです。
価値創造の「ナラティブ」を構築する3つのステップ
では、単なる報告書を、企業価値を雄弁に物語る「ナラティブ」へと昇華させるために、具体的にどのようなステップを踏めばよいのでしょうか。より実践的なアプローチを3段階で解説します。
ステップ1:土台の再確認 ― 戦略の核となるマテリアリティの特定
全ての出発点は、自社のビジネスモデルと経営戦略の再確認です。まず、経営陣、事業責任者、人事、IR担当者などを交え、以下の問いについて議論を深めることから始めます。
- 事業環境の分析
今後3〜5年で、自社の事業に最も大きな影響を与える市場の変化、技術革新、競合の動きは何か? - 戦略の方向性
その環境変化に対し、当社はどのような戦略で勝ち残るのか?(例:新市場への進出、既存事業の深化、技術的優位性の確立など) - マテリアリティの特定
その戦略を成功させる上で、最も重要な「人的資本」に関する課題(マテリアリティ)は何か?(例:次世代リーダーの不足、デジタル人材の獲得競争、専門技術の承継など)
ここで特定した2〜3個の最重要マテリアリティこそが、貴社の人的資本ナラティブの中心テーマとなります。
ステップ2:物語の骨子作成 ― ロジックツリーによる戦略とKPIの接続
次に、特定したマテリアリティを基点に、物語の骨子を組み立てます。この際、「ロジックツリー」を用いて、戦略からKPIまでを論理的に分解し、可視化することが有効です。
ロジックツリーの例(A社の場合)
- 大目標(経営戦略):EV向け高性能部品市場でシェア20%を獲得する
- 中目標(人材戦略):最先端の技術開発を担うトップエンジニアを確保・育成・定着させる
- 具体的施策(アクション)
- 専門職向けの新たな報酬・キャリアパス制度を導入
- 社外のトップ研究者との共同研究プロジェクトを拡充
- エンジニアのエンゲージメント向上のための施策(裁量権拡大など)を実施
- 測定指標(KPI)
- 結果指標
重要ポジションのエンジニア離職率、製品開発リードタイム - 先行指標
エンジニア一人当たりの研修投資額、エンゲージメントサーベイにおける「成長機会」スコア
- 結果指標
このように構造化することで、「なぜこのKPIが重要なのか」という投資家の問いに対し、経営戦略から一貫した論理で説明することが可能になります。
ステップ3:肉付けと検証 ― 定性情報による説得力の強化
論理的な骨子ができあがったら、最後に定性的な情報で「肉付け」を行い、物語をより豊かにします。
- 具体例の挿入
導入した新人事制度によって、実際にどのようなキャリアを歩むエンジニアが生まれたか、具体的な(匿名の)事例を盛り込む。 - 従業員の声の活用
エンゲージメントサーベイのフリーコメントなどから、「挑戦を後押しする文化」を示すような従業員の声を引用し、データだけでは伝わらない組織のリアルな姿を伝える。 - 社内での検証
完成したナラティブを、まずは財務部門や事業部門の責任者など、社内の「批評家」に見せてみましょう。「このストーリーで、外部の投資家を説得できるか?」という視点でフィードバックをもらうことで、公表前に論理の穴や弱点を修正することができます。
これらのステップを通じて初めて、有価証券報告書は単なる義務的な報告書から、自社の未来を語る力強い「武器」へと変わるのです。
有価証券報告書は、自社の未来を映す鏡である
本コラムでは、有価証券報告書における人的資本開示を、受動的な義務から能動的な企業価値向上の機会へと転換するための視点について論じました。開示は、決してゴールではありません。それは、自社の人的資本戦略を見つめ直し、ステークホルダーとの対話を深め、経営と人事の連携を強化するためのスタートラインです。
このプロセスに真摯に取り組むことこそが、変化の激しい時代において、企業が持続的な成長を遂げるための礎となると、私たちは確信しています。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の開示内容の高度化や、その背景となる人材戦略の策定をサポートします。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。