「とりあえず開示」から脱却できていますか?
人的資本開示の義務化に対応するため、他社の事例を参考に、なんとか有価証券報告書の記載を終えた。多くの企業の経営者や人事責任者の方々が、同様の状況にあるのではないでしょうか。
これまでは、まずは制度に対応することが最優先だったかもしれません。しかし、その人的資本開示は、貴社の未来の成長ストーリーを、投資家や従業員、そして顧客に対して雄弁に語るものになっているでしょうか。
もし、「開示のための開示」に陥り、以下のような課題を感じているのであれば、本コラムは貴社にとって一つの転換点となるかもしれません。
- 開示した指標が、自社の経営戦略とどう結びついているのか、明確に説明できない。
- 指標の達成が、本当に企業価値向上に繋がるのか、確信が持てない。
- 現場の従業員からは「また新しい指標が増えた」という、どこか他人事のような反応しか得られていない。
- 人的資本開示が、経営層と人事部門だけの取り組みになってしまっている。
これらの課題の根底にあるのは、人的資本開示を「守りの義務」と捉えるか、「攻めの戦略」と捉えるかの違いに他なりません。本稿では、この人的資本開示を企業価値創造のエンジンへと転換させるための、本質的なアプローチについて深く掘り下げていきます。
「開示のための指標」から「戦略実現のための羅針盤」へ
人的資本開示で問われている本質は、「貴社が持続的に成長するために、人材をどのように捉え、どのような戦略を描いているのか」を、具体的なデータやストーリーで示すことにあります。つまり、出発点は「何を開示するか」ではなく、「自社が何を目指すのか(経営戦略)」であるべきです。
経営戦略と人材戦略の「連動」が鍵
多くの企業で、経営戦略と人材戦略が分離してしまっているという現実があります。経営陣が描く事業ポートフォリオの変革や新規事業の創出といった壮大なビジョンに対して、人事部門が展開する施策が、必ずしも連動していないケースが見受けられます。
例えば、DXを推進して新たなサービスを展開するという経営戦略を掲げながら、人材育成計画は従来の延長線上にあり、IT人材の採用も場当たり的になっている、といった状況です。これでは、戦略は計画倒れで終わってしまいます。
ここで重要になるのが、「動的な人材ポートフォリオ」という考え方です。現在の従業員のスキルや経験、価値観といった人的資本を可視化するだけでなく、将来の事業戦略を実現するために「どのような人材が、何人、いつまでに必要か」という未来の理想像(To-Be)を定義し、現状(As-Is)とのギャップを明確にすること。このギャップこそが、採用、育成、配置といった具体的な人材戦略の根幹となります。
人的資本開示は、このギャップを埋めるための取り組みの進捗を示す、まさに「戦略実現のための羅針盤」として機能させることが可能なのです。
ケーススタディ:ある中堅メーカーA社の課題
ここで、当社のご支援実績をもとに、ある中堅の電子部品メーカーA社のケースを例に考えてみましょう。
A社は、主力事業の市場縮小を見据え、「ソリューション提供型ビジネスへの転換」という中期経営計画を打ち出しています。しかし、人的資本開示の義務化にあたり、ひとまず同業他社を参考にして「女性管理職比率」や「研修時間」といった一般的な指標を開示しました。
当然ながら、これらの指標はA社が目指す「ソリューション提供型ビジネスへの転換」という戦略との繋がりが希薄です。案の定、投資家とのミーティングでは「貴社の変革の意思は理解したが、それを実行する人材は育っているのか」という厳しい指摘を受けました。
経営陣は、人的資本開示と経営戦略が乖離しているという事実に直面し、このままではいけないと強い危機感を抱いています。しかし、経営戦略をどのように具体的な人材要件やKPIに落とし込み、説得力のある開示情報へと繋げていけばよいのか、その具体的な方法論を描けずに悩んでいる状況です。
A社の課題に対するコトラの視点
このようなA社のケースに対し、私たちコトラであれば、以下のような視点で解決へのアプローチを構築していきます。これは、多くの企業に共通する課題解決のプロセスでもあります。
まず、私たちが最も重視するのは、A社の経営戦略、すなわち「ソリューション提供型ビジネスへの転換」を徹底的に理解し、それを具体的な「人材の言葉」に翻訳することです。経営陣や事業責任者の方々とワークショップを重ね、「ソリューション提供」に不可欠な能力は何かを定義します。例えばそれは、「コンサルティング能力」「プロジェクトマネジメント能力」「イノベーション創出能力」といった具体的なスキルセットとして言語化されるかもしれません。
次に、この定義されたスキルセットに基づき、「動的な人材ポートフォリオ」の構築に着手します。これは、単に現状の人材を可視化する(As-Is)だけでなく、将来の事業計画から逆算して、あるべき人材の理想像(To-Be)を「質」と「量」の両面で明確にするアプローチです。現状と理想のギャップが明らかになることで、初めてA社が「何を」「どれだけ」採用・育成すべきかという、具体的な人材戦略が見えてきます。
このギャップを埋めるための取り組みこそが、A社の新しい人的資本開示のKPIとなります。例えば、以下のような、より戦略と連動した指標が考えられます。
- 戦略的スキル(上記3能力)保有者の比率と、その育成目標
- 次世代リーダー候補のパイプライン充実度(人数や充足率)
- 事業転換に貢献した人材の、部署間異動の活性度
このようなアプローチを経ることで、A社の人的資本開示は、単なる報告義務から「経営戦略の実行状況を示す羅針盤」へと進化します。投資家に対しても、自社の変革に対する本気度を、具体的かつ論理的に示すことが可能となるのです。
明日から始める「戦略的」人的資本開示への第一歩
A社のような変革は、一朝一夕になし遂げられるものではありません。しかし、その第一歩を踏み出すことは、どの企業においても可能です。ここでは、読者の皆様が具体的なアクションを起こすための視点を3つ提示します。
ステップ1:経営の言葉を「人材の言葉」に翻訳する
まずは、自社の中期経営計画や事業戦略に関する資料を改めて読み解き、その戦略を実現するために「不可欠な人材要件は何か」を議論する場を設けることから始めてみてください。参加者は、経営企画、事業部門、人事部門の担当者が望ましいでしょう。
「グローバル展開を加速する」という戦略があるならば、必要なのは単に語学が堪能な人材だけでしょうか。異文化を理解し、現地でビジネスを立ち上げられるリーダーシップや、海外の法規制・商習慣に関する知識も必要かもしれません。このように、経営の言葉を具体的なスキル、経験、能力といった「人材の言葉」に翻訳していく作業が、戦略と人事の連動を生むための基礎となります。
ステップ2:現状(As-Is)を、まずは大まかに把握する
次に行うべきは、翻訳した人材要件に対して、社内の現状がどうなっているのかを把握することです。最初から全従業員の詳細なスキルデータを集めようとすると、途中で頓挫してしまう可能性があります。
まずは、主要な部門や階層に絞って、アンケートやヒアリングを実施することから始めてみてはいかがでしょうか。例えば、「当社のDX推進において、あなたはご自身のスキルにどの程度の自信がありますか?」といった簡単な設問でも、課題の所在を大まかに掴むことは可能です。
完璧なデータを目指すのではなく、まずは議論のたたき台となる情報を集めることが重要です。このプロセスを通じて、人的資本開示に向けたデータ収集の課題も浮き彫りになるはずです。
ステップ3:ストーリー(ナラティブ)で意味を付与する
最後に、設定したKPIや集めたデータが、どのような「意味」を持つのかをストーリーとして語ることを意識してください。例えば、「リスキリング研修の参加率が前年比で20%向上しました」という事実(Fact)だけでは不十分です。
「当社の主力事業が成熟期を迎える中、従業員のキャリア自律を支援し、新たな成長事業である〇〇領域へ人材をシフトさせるため、リスキリング投資を強化しました。その結果、参加率が20%向上し、従業員からは『新しい挑戦への意欲が高まった』という声が寄せられています。これは、当社が目指す事業ポートフォリオ変革の確かな一歩であると考えています」。
このように、背景(Why)、取り組み(What)、結果(Result)、そして今後の展望(Future)を一つの物語として紡ぐことで、単なる数字の羅列だった人的資本開示が、血の通ったメッセージへと変わるのです。
人的資本開示は、未来への投資の意思表示
人的資本開示は、決して短期的な成果を求めるものではありません。それは、自社の最も重要な資本である「人」に、どのように向き合い、育み、共に成長していこうとしているのか、その覚悟とビジョンを社会に示す行為です。
戦略と連動した人的資本開示に取り組むことは、従業員のエンゲージメントを高め、イノベーションを創出し、ひいては持続的な企業価値向上を実現するための、極めて有効な経営アプローチであると考えられます。目先の義務感から解放され、未来への投資という視点に立った時、人的資本開示は企業にとって強力な武器となるでしょう。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の経営戦略と連動した人的資本開示の高度化をサポートします。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。