「人的資本経営」の重要性、本当に理解できていますか?
「人的資本経営」という言葉が、経済ニュースやビジネス誌で頻繁に取り上げられるようになりました。多くの経営者や人事責任者の方々がその重要性を認識しつつも、「言葉だけが先行し、自社で何をすべきか具体的に描けていない」「取り組みを始めたものの、これが本当に正しい道なのか確信が持てない」といった、漠然とした焦りや不安を感じていらっしゃるのではないでしょうか。
人的資本経営は、単なる人事領域のトレンドワードではありません。それは、企業の持続的な成長を実現するための、経営そのものの変革を促す考え方です。本コラムでは、今一度「人的資本経営とは何か」という原点に立ち返り、その本質と、すべての企業が今まさに取り組むべき理由を、具体的なステップと共に解き明かしていきます。
人を「コスト」から「資本」へ:人的資本経営の本質的転換
人的資本経営の核心とは
人的資本経営(Human Capital Management)とは、従業員が持つ知識、スキル、能力などを「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上を目指す経営のあり方です。
この考え方は、従来の人事管理、すなわち「人的資源管理(Human Resource Management)」とは一線を画します。両者の違いは、単なる言葉の綾ではなく、人材に対する根本的な思想の違いにあります。
- 人的資源管理(HRM)
この考え方では、人を「資源(Resource)」と捉えます。資源は利用・消費されるものであり、管理の主眼は、いかに効率的に活用し、労務リスクを管理し、コストを最適化するかに置かれます。これは、経営を支える重要な管理機能ですが、視点は主にオペレーションの効率化に向いています。 - 人的資本経営(HCM)
一方、人を「資本(Capital)」と捉えるこのアプローチでは、人材は投資を通じて価値が高まる存在と見なされます。管理や消費の対象ではなく、育成やエンゲージメント向上といった「投資」の対象となるのです。その目的は、人材の価値を最大化し、それをイノベーションや生産性向上に繋げ、最終的に企業価値全体の向上に結びつけることです。
要するに、「人的資源」が管理・効率化を志向するのに対し、「人的資本」は投資・価値創造を志向します。この発想の根本的な転換こそが、人的資本経営の最も重要な本質と言えるでしょう。
なぜ今、人的資本経営が求められるのか
この経営手法が、なぜこれほどまでに強く求められるようになったのでしょうか。その背景には、無視できないいくつかの社会経済的な変化が存在します。
- 無形資産の重要性の高まり
企業の競争優位性の源泉が、工場や設備といった有形資産から、技術、ブランド、そして人材といった無形資産へと移行しています。特に、イノベーションを生み出す源泉である「人」の価値は、かつてなく高まっています。 - 労働市場の変化
少子高齢化による生産年齢人口の減少は、優秀な人材の獲得競争を激化させています。加えて、働き方の多様化が進む中で、従業員に「選ばれる企業」であるためには、魅力的な報酬だけでなく、働きがいや成長機会の提供が不可欠です。 - 投資家の視点の変化
ESG投資の拡大に伴い、投資家は企業の財務情報だけでは測れない「非財務情報」を、企業の持続性を評価する上で極めて重要な指標と見なすようになりました。中でも、成長の基盤となる人的資本への取り組みは、その筆頭に挙げられます。
実践のためのフレームワーク:3P・5Fモデル
これらの背景を踏まえ、経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート2.0」では、人的資本経営を実践するための考え方として「3P・5Fモデル」というフレームワークが提示されています。これは、自社の取り組みを整理し、次の一手を考える上で非常に有効な羅針盤となります。
3つの視点(Perspectives)
- 経営戦略と人材戦略の連動
人材戦略が、経営戦略の実現のためにどう貢献するのかを明確にする。 - As-is To-beギャップの定量把握
目指す姿(To-be)と現状(As-is)の差を、データで客観的に把握する。 - 企業文化への定着
人的資本の重要性を、一部の取り組みに終わらせず、組織全体の文化として根付かせる。
5つの共通要素(Factors)
- 動的な人材ポートフォリオ
事業の変化に合わせ、最適な人材構成を柔軟に構築する。 - 知・経験のダイバーシティ&インクルージョン
多様な人材が活躍できる環境を整備する。 - リスキル・学び直し
従業員のスキルを時代に合わせてアップデートし続ける。 - 従業員エンゲージメント
従業員の会社への貢献意欲や働きがいを高める。 - 時間や場所にとらわれない働き方
多様な働き方を許容し、生産性を向上させる。
このフレームワークの中でも、私たちコトラが最も重要であり、全ての起点となると考えているのが、3つの視点の筆頭に挙げられている「経営戦略と人材戦略の連動」です。
個々の人事施策がどれだけ優れていても、それらが経営全体の目標達成という大きな流れの中に位置づけられていなければ、その効果は限定的になってしまいます。事業戦略を実現するために、どのような人材が、どれだけ必要で、どのように育成・配置し、最大限活躍してもらうか。これを突き詰めることこそが、実効性のある人的資本経営の実践に他ならないのです。
明日から始める、人的資本経営の第一歩
では、経営戦略と連動した人的資本経営を、具体的に何から始めれば良いのでしょうか。大掛かりな制度改革に着手する前に、まずは自社の「現在地」を正確に把握し、進むべき方向性を定めることから始めましょう。
ステップ1:自社の人材情報を「可視化」する
最初のステップは、自社にどのような人材が、どのようなスキルや経験を持っているのかを把握すること、つまり「可視化」です。これまで人事部門内の個別ファイルや各担当者の頭の中、さらには事業部門ごとにバラバラに管理されるなど、組織全体で散在していた情報を、一元的に集約・整理します。
集めるべき情報の例としては、以下のようなものが挙げられます。
- 基本情報:年齢、性別、勤続年数、所属部署、役職など
- スキル・経験:保有資格、研修受講歴、過去のプロジェクト経験、語学力など
- キャリア志向:従業員が将来どのようなキャリアを歩みたいと考えているか
- エンゲージメント:仕事に対する熱意、貢献意欲、組織への愛着度など
これらの情報を一元的に管理し、分析できる基盤を整えることが、戦略的な人材配置や育成計画の策定に向けた礎となります。
ステップ2:トップダウンとボトムアップの融合で、「あるべき人材像」を定義する
ステップ1で可視化されたデータは、あくまで「現在地」を示す地図に過ぎません。次に行うべきは、目的地、すなわち「あるべき人材像(To-Beモデル)」を定義することです。
ここで極めて重要なのが、経営戦略から描く「トップダウン」の視点と、事業の現場から吸い上げる「ボトムアップ」の視点を融合させることです。
- トップダウンの視点(経営戦略からの逆算)
経営層が中心となり、「3〜5年後、自社はどの市場で、どのような価値を提供して勝ち残るのか」という経営戦略から逆算して、将来的に不可欠となる人材要件を定義します。
例えば、「新規事業であるDXソリューション分野で売上比率30%を目指すためには、クラウド技術に精通したアーキテクトが10名、データサイエンティストが5名必要だ」といった、全社最適の視点です。 - ボトムアップの視点(現場からの現実と課題)
一方で、事業部門のリーダーからは、日々のビジネスの最前線で直面しているリアルな人材課題を吸い上げます。
例えば、「競合A社が新しいサービスを投入し、顧客対応のスピードで後れを取っている。現場では、より高度な交渉スキルを持つ営業担当が急務だ」といった、現場の肌感覚に基づいた具体的なニーズです。
このトップダウンの理想論と、ボトムアップの現実論を、経営・人事・事業部門の三者がテーブルを囲んで徹底的に議論する。このプロセスを通じて初めて、戦略と現場感覚の双方に裏打ちされた、実効性の高い「あるべき人材像」と、そこに至るまでの「ギャップ(課題)」が明確になるのです。
人的資本経営は未来への投資である
本コラムでは、「人的資本経営とは何か」という本質的な問いから、その重要性、そして実践に向けた第一歩までを解説しました。
人的資本経営は、短期的な成果を求めるものではなく、企業の未来を創造するための長期的な投資です。従業員一人ひとりの価値を最大限に引き出し、組織全体の力へと変えていく。この営みこそが、変化の激しい時代を乗り越え、持続的な企業価値向上を実現する唯一の道筋であると考えられます。まずは自社の人材を深く理解することから、始めてみてはいかがでしょうか。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の課題解決をサポートします。人材情報の可視化や、それを活用した戦略策定について、より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。