人事部がなくても人的資本経営は可能か
「人的資本経営」という言葉を聞くと、専門知識を持った人事部員がデータを分析し、複雑な制度を設計する大掛かりなものをイメージされるかもしれません。
「うちは総務担当が給与計算で手一杯だ」
「専任の人事部長なんていない」
このような理由で、導入を躊躇される経営者様が多くいらっしゃいます。
しかし、人的資本経営の実践において、必ずしも「立派な人事部」や「専任担当者」が必要なわけではありません。 むしろ、組織の規模が小さく、意思決定のスピードが速い中小企業こそ、経営者自身がプロジェクトオーナーとなることで、大企業よりもスピーディーかつ本質的に人的資本経営を推進できるポテンシャルを秘めています。
人事制度やツールの導入はあくまで「手段」です。人的資本経営のポイントは「経営戦略と人材戦略を連動させること」であり、これは経営者にしかできない、経営そのものの仕事です。実務的な部分は、兼務の担当者や外部のプロフェッショナルと連携すれば十分にカバー可能です。
本コラムでは、人事専任者が不在でも、経営者がリーダーシップを発揮して人的資本経営をスモールスタートさせるためのロードマップを解説します。
経営者が主導する「一点突破」戦略
リソースが限られる中で成功させるポイントは、「完璧を目指さない」ことと「優先順位をつける」ことです。あれもこれもと手を広げると、現場は疲弊し、頓挫してしまいます。
ここで推奨するのは、経営課題に直結する施策に絞った「一点突破型」のスモールスタートです。
例えば、「新規事業を立ち上げたいが、任せられる人材がいない」という経営課題があるとします。この場合、全社的な人事評価制度を見直す必要はありません。まずは「新規事業に必要なスキル要件の定義」と「候補者の抜擢・育成プランの策定」だけにリソースを集中させます。これなら、大規模なシステム導入も不要で、経営者と数名のキーマンで議論を進めることができます。
「As is-To be」思考でギャップを特定する
難しく考える必要はありません。経営者自身のノートに、以下の3点を書き出すことから始めてみてください。
- To be(理想の姿)
- 「3年後、会社をどうしたいか?」
- 「その時、どんな社員が活躍していてほしいか?」
- As is(現状の姿)
- 「今の社員はどんな状態か?」
- 「何が足りていないか?(スキル、意欲、人数など)」
- Gap(課題)
- 「理想と現実を埋めるために、今一番やるべきことは何か?」
この3ステップの思考プロセスこそが、人的資本経営の根幹です。ここさえブレなければ、後に続く施策は自然と決まってきます。
人的資本経営の実践に向けたロードマップ
人事専任者が不在でも進められる、現実的かつ効果的な4つのステップをご提案します。
ステップ1:経営者の想いを「共通言語」にする
最も重要で、かつ今日からコストゼロでできる施策は、経営者の頭の中にある期待を、社員が理解できる言葉に変換して届けることです。
「なぜ、我々はこの事業を行っているのか(ミッション)」「将来、どのような会社になりたいのか(ビジョン)」「そのために、社員にどう成長してほしいのか(人材像・期待役割)」をセットにして語ることが重要です。
このとき、全社集会での発信はもちろんですが、日常的な意思決定や、社員を評価する場面でこの基準が一貫しているかどうかが問われます。方向性が合っていない状態で制度を作っても機能しません。逆に、経営者の想いが共通言語になっていれば、制度が未整備でも社員は判断に迷わず、自律的に動くことができます。まずは言葉を尽くして、目線を合わせることから始めましょう。
ステップ2:現状の「事実」と「感情」を把握する
一方的な発信だけでなく、社員や組織の状態を客観的に把握します。まずはシンプルに、組織のリスクと温度感を掴むことに集中します。
- 事実の把握(属人化リスクの特定)
誰がどんな業務を担っているかを一覧化し、特に「その人がいなくなったら回らない業務」を特定します。「特定のベテランに依存しすぎている」「この業務のマニュアルがない」といった組織の脆弱性を可視化することで、採用すべき人材像や配置転換の緊急度を判断できます。 - 感情の把握(簡易サーベイ・面談)
Googleフォーム等を使った無記名のアンケートで、今の仕事の満足度や会社への要望を聞きます。結果が悪くても受け止める覚悟を持ち、「現場は思ったより疲弊している」「意外とビジョンは伝わっている」といった現在地を知ることが、正しい施策への第一歩です。
ステップ3:「やらないこと」を決めてリソースを捻出する
兼務の担当者(総務や経理など)が人的資本経営に関わる時間を捻出するためには、既存業務の削減が必須です。これを精神論で「頑張れ」と言うのは酷であり、失敗の原因になります。
「慣例だからやっている紙の申請業務」「形骸化した定例会議」「誰も読んでいない日報」など、付加価値の低い業務を経営判断で停止します。また、勤怠管理や給与計算などの定型業務は、SaaS(クラウドサービス)を導入して自動化することも有効です。
「この業務をなくして、空いた時間で社員との面談を増やそう」というように、業務効率化と人的資本への投資をセットで考えることで、組織全体の生産性は確実に向上します。
ステップ4:特定の部署で「小さな成功(クイックウィン)」を作る
いきなり全社一斉に制度を変えようとすると、現場の抵抗や混乱を招きます。まずは、経営者の想いが届きやすい特定の部署や、意欲的なリーダーがいるチームをモデルケースとして選びます。
そのチームだけで新しい1on1を試行する、あるいはスキルアップ支援を先行導入するなどして、小さな成功事例を作ります。「あのチーム、最近雰囲気が良くて業績も上がっているらしいよ」という評判が社内に広まれば、他部署への展開もスムーズに進みます。
外部リソースの賢い活用
社内に専門ノウハウがない場合は、外部の力を借りるのも有効な戦略です。ただし、全てを丸投げしてはいけません。「戦略(Why/What)は経営者が決め、実行(How)は外部のプロに任せる」という役割分担が成功の鍵です。
- 経営者の役割(プロジェクトオーナー)
「どんな人材が必要か」「どんな組織にしたいか」というビジョンを語り、最終的な意思決定を行うこと。これは外部にはできません。 - 外部パートナーの役割(実行支援)
ビジョンを実現するための「評価制度の設計図作成」「採用スカウトの代行」「研修の実施」「ツールの選定」など、専門知識と工数が必要な実務を担うこと。
「自社で一から勉強して人事担当者を育てる時間」をお金で買い、経営スピードを上げるという発想です。特に中小企業では、必要な機能だけを必要な期間だけ調達する「外部プロ人材の活用」が、最も合理的でリスクの低い選択肢となるケースが多々あります。
小さく始めて、組織の「OS」をアップデートする
人的資本経営は、一度仕組みを作れば終わりではなく、企業の成長に合わせて常にチューニングが必要です。だからこそ、最初から重厚長大な制度を作るのではなく、身の丈に合ったサイズで始め、走りながら修正していくアジリティ(俊敏性)が求められます。
「人がいないからできない」と嘆くのではなく、「人がいないからこそ、今いる人を最大限に活かす」。 その発想の転換こそが、組織のOSをアップデートする鍵となります。経営者が先頭に立ち、小さな一歩を踏み出した瞬間から、貴社の組織は変わり始めます。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社の課題解決をサポートします。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。




