開示を急ぐ前に直視すべき「人事データ整備」の現実
「人的資本情報の開示」が叫ばれる昨今、多くの企業の人事部門が直面しているのは、華々しい戦略の策定以前の、もっと足元の悩みではないでしょうか。すなわち、「データがない」あるいは「データはあるが、信頼性に自信が持てない」という実務的な壁です。
給与計算はアウトソーシング先のシステム、勤怠管理はクラウドツール、評価データはタレントマネジメントシステム、そして研修履歴や採用データは各担当者のExcelファイルに散在している…。このような「データのサイロ化」は、決して珍しいことではありません。
しかし、この状態で拙速に情報開示を進めることは極めて危険です。投資家から「この離職率の定義は?」「グループ会社も含んでいるか?」と問われた際、明確な根拠を示せなければ、企業の信頼は大きく損なわれます。
本コラムでは、こうした「人事データのカオス」を整理し、実効性の高いデータガバナンスを構築するための枠組みとして、ISO 30414の新制度「エッセンシャル認証」を活用する方法論を解説します。
「なんとなくの数字」が通用しない国際基準の世界
そもそも、なぜ社内のデータ定義を見直す必要があるのでしょうか。それは、自己流の定義で算出したデータは、経営陣や投資家からは「比較不可能で信頼できない数字」とみなされてしまうからです。
一見単純な指標に潜む「定義の罠」
ここでは例として「研修への参加率」を見てみましょう。一見、参加人数を対象人数で割るだけの単純な計算に思えます。
しかし、ここにも定義の落とし穴があります。よくあるのが、「全社必須のコンプライアンス研修だから」という理由で、実態を確認せず機械的に「参加率100%」と記録しているケースです。しかし、実際には長期休職中の社員や、出向中の社員は受講していないかもしれません。彼らを分母(対象者)に含めるのか、除外するのかという定義が必要です。
また、「参加(完了)」の定義も曖昧になりがちです。単に当日の出席確認だけでよいのか、事後の感想文やレポート提出をもって初めて「参加」とみなすのか。eラーニングであれば、動画の再生完了だけでよいのか、理解度テストの合格まで求めるのか。
こうした完了基準(定義)が明確に文書化され、全社で統一されていなければ、担当者のさじ加減一つで数値が変わってしまい、経年比較も他社比較もできない「使えない数字」になってしまいます。
カオスを整理する「物差し」としてのISO 30414
こうした曖昧さを排除し、データの信頼性を担保するためには、社内ルールではなく、客観的な「外部の物差し」に合わせてデータを整備するのが最も確実な解決策です。その世界共通の物差しこそが、人的資本情報開示の国際ガイドラインである「ISO 30414」です。
ISO 30414には、計算式やデータの範囲に関する定義が存在します。この規格に準拠してデータを整備することで、初めて「当社のデータは世界標準で比較可能である」というお墨付きを得ることができるのです。
解決策としての「エッセンシャル認証」
しかし、いきなりISO 30414の全指標(改訂版では69指標)すべてについて、厳密な定義づけとデータ収集を行うことは、実務担当者にとって途方もない作業です。「理想はわかるが、リソースが足りない」というのが現実でしょう。
そこで有効なのが、2025年の改訂に伴い、審査機関であるHCプロデュース社が新設した「エッセンシャル認証制度」です。この制度の最大の特徴は、審査対象が組織運営の根幹に関わる「必須14指標」に限定されている点にあります。
対象を絞ることで、以下のような実務的なメリットが生まれます。
- 優先順位の明確化
膨大なデータの中から、最優先で整備すべき項目が特定できます。 - リソースの集中
限られた人員と予算を、特定指標の精度向上に注ぎ込めます。 - 成功体験の創出
短期間(審査期間は約1ヶ月)で認証取得という成果を得ることで、社内のデータ活用機運を高められます。
エッセンシャル認証は、組織内のあらゆるデータを一度に整備しようとするのではなく、組織の健全性を示すために最も重要な「必須14指標」に対象を絞り、そのデータ品質を確実に高めるアプローチです。この「14指標」の信頼性を盤石にすることこそが、実効性のあるデータガバナンス構築の第一歩となります。
審査の現場で問われる「データガバナンス」の正体
では、実際にエッセンシャル認証の審査では、データについて何が見られるのでしょうか。HCプロデュース社による審査基準には、数値そのものだけでなく、データの管理体制に関する詳細な評価項目が設けられています 。
実務担当者が特に注意すべきは、以下のポイントです。
データ取得の信頼性
データが適切な形で「抜け漏れなく」取得されているかが問われます。特に注意が必要なのは、事業部間やグループ企業間での統合です。「本社はシステムだが、支社は手書き台帳」といったバラつきは、データの信頼性を損なう要因とみなされます。
データ定義と根拠
算出式やデータの定義が文書化され、明記されている必要があります。また、審査では指標データだけでなく、その根拠となる「元データ」の提示が求められる場合もあります。計算結果のExcelシートだけでなく、その元となったシステムログや台帳まで遡れるトレーサビリティ(追跡可能性)が確保されているかが重要です。
責任体系と安全性
誰がそのデータを作成し、誰が承認したのかという「責任体系」が確立されているか。また、個人情報を含む人事データが、適切なアクセス権限のもとで管理され、漏洩リスクがないか(データ安全性)もチェックされます。
認証取得を「業務改善」のドライバーにする
このように見ていくと、エッセンシャル認証への取り組みは、単なる開示対応ではなく、人事部門の「業務改善」そのものであることが分かります。
定義が曖昧だった指標に明確なルールを設け、属人的だった集計作業をシステム化・標準化する。このプロセスを通じて構築された「信頼できるデータ基盤」は、認証取得後も、経営陣が迅速かつ正確な意思決定を行うための強力な武器となります。
自己流の解釈で進めて手戻りを繰り返すよりも、国際規格という「正解」に合わせてデータを整備する方が、長期的には最も効率的なアプローチと言えるでしょう。
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