人的資本経営の現場で起きている、理想と現実のギャップ
「全社で人的資本経営を掲げたものの、現場からは『また新しい仕事が増えた』と冷ややかな反応しか返ってこない」
「情報開示の準備に追われ、本来の目的であるはずの企業価値向上の議論が全く進んでいない」
人的資本経営の重要性を認識し、その実践に意欲的に取り組む企業ほど、このような深刻な「壁」に直面する傾向があります。掛け声ばかりが先行し、現場が付いてこない。あるいは、手段が目的化してしまう。こうした状況は、従業員のエンゲージメントをかえって低下させかねない、危険な兆候と言えるでしょう。
本コラムでは、人的資本経営において多くの企業が直面する「3つの壁」と、それらを乗り越えるための本質的なアプローチについて考察します。
「経営層の期待」と「現場の体感」のズレ:壁が生まれる構造
なぜ、多くの企業で人的資本経営は「壁」にぶつかるのでしょうか。その根源は、経営層と現場従業員との間に横たわる、深刻な「認識のズレ」にあると考えられます。
- 経営層の視点
人的資本経営を、新たな「経営管理ツール」や「IR向けの体裁作り」と捉えてしまうケースが散見されます。「人は資本だ」と語りつつも、内心では従業員を管理すべき「コスト」と見る旧来の価値観が抜けきらないため、施策が付け焼き刃になったり、短期的な成果を求めすぎたりします。 - 現場の視点
経営からのメッセージに対し、「どうせ口だけで、本気ではないだろう」「また新しいノルマが増えるのか」といった冷めた視線を向けています。日々の業務に追われる中で、理念や戦略レベルの話は「自分たちの仕事とは関係ない、遠い世界の出来事」と感じてしまうのです。
この「期待のズレ」と、過去の経験からくる「不信の蓄積」こそが、あらゆる施策を空転させ、具体的な「壁」を生み出す正体です。
人的資本経営の実践に必要となる本質的な考え方
この構造的な問題を乗り越える本質的な考え方は、従業員を単なる「労働力」ではなく、共に未来を創る「パートナー」として遇することに尽きます。それは具体的に、以下の3つの経営行動へと繋がります。
- 徹底した情報の透明化
パートナーであるならば、会社の現状を包み隠さず共有することが基本です。好調な業績だけでなく、直面している経営課題や財務状況も誠実に開示することで、従業員に「自分も会社の一員なのだ」という当事者意識が芽生えます。 - 意思決定プロセスへの参画
現場の業務改善や人事制度の改定といったテーマについて、従業員を「意見聴取の対象」で終わらせず、ワークショップやプロジェクトチームを通じて意思決定のプロセスそのものに参画させます。「自分たちの声で会社を動かせる」という実感は、何よりのエンゲージメント向上策となります。 - 「挑戦のための失敗」を許容する文化
人への投資は、失敗のリスクを伴います。挑戦的な取り組みが失敗に終わった際に、個人を責めるのではなく、組織としての学びとして次に活かす文化を醸成することが不可欠です。心理的安全性が確保されて初めて、従業員は自律的な挑戦を始めます。
実践を阻む「壁」を乗り越えるための実務的アプローチ
上記の考え方を土台に、具体的な3つの壁と、それを乗り越えるためのアプローチを紹介します。
「開示の目的化」の壁
情報開示の義務化をきっかけに取り組む企業が、最初にぶつかるのがこの壁です。統合報告書や有価証券報告書の見栄えを良くすることがゴールとなり、開示指標の数値を整えることに終始してしまいます。
回避のためには、作業の進め方そのものを変える必要があります。
- 「開示ストーリー」策定会議の設置
IR・人事・経営企画・事業部門の合同チームで、「今回の開示を通じて、投資家に何を伝え、どう評価されたいか」というゴールを最初に設定します。これにより、単なるデータ収集ではなく、メッセージ性のある情報発信へと意識が変わります。 - 開示項目に優先順位をつける
全ての指標を完璧に揃えることを目指すのではなく、「自社の価値創造ストーリーを語る上で、最も重要な指標は3つ」というように、優先順位をつけます。リソースを集中させることで、質の高い分析と考察が可能になります。
「現場の他人ごと化」の壁
経営層や人事部が主導で戦略を策定し、現場に通達するだけのトップダウン型のアプローチは、従業員の「やらされ感」を生む典型的なパターンです。「また経営が何か言っている」と、自分たちの仕事とは無関係な「他人ごと」として捉えられてしまいます。
- 「翻訳者」としての管理職への徹底支援
管理職に対し、「人的資本経営とは何か」という座学研修だけでなく、「自部門の目標達成と、部下の成長支援をどう結びつけるか」を考えるワークショップを実施します。成功事例を持つ管理職に自身の言葉で経験を語ってもらう「ピアラーニング」の機会も極めて有効です。 - フィードバックループの構築と可視化
従業員サーベイを実施したら、結果を全社に公開するだけでなく、「皆さんからの意見を受け、〇〇という制度を改善しました」という具体的なアクションと成果を経営トップから発信します。「声を上げれば、会社は変わる」という実感こそが、当事者意識を育みます。タウンホールミーティングや部門別の対話会を地道に続けることが、信頼関係の土台となります。
「短期的な成果主義」の壁
「人」への投資は、その効果が表れるまでに時間がかかります。にもかかわらず、短期的な業績指標だけで人的資本経営の実践の成否を判断しようとすると、「研修コストの削減」や「採用の抑制」といった、本来の趣旨とは真逆の意思決定に繋がりかねません。
- 非財務KPIを業績評価に組み込む
役員や管理職の業績評価(賞与査定など)に、「従業員エンゲージメントスコアの改善度」や「部下の育成目標達成率」といった、人的資本に関する指標を組み込みます。これにより、経営層の本気度が伝わり、現場の行動変容を強力に後押しします。 - 成功事例のストーリー化と共有
「リスキリングに挑戦したAさんが、新規事業で中核人材として活躍している」「働き方改革で残業を減らしたB部署が、かえって生産性を向上させた」といった成功事例を、単なる結果だけでなく、背景にある苦労や工夫も含めてストーリーとして社内で共有します。これにより、人的資本経営がもたらす価値を、全従業員が具体的にイメージできるようになります。
失敗を恐れず、対話から始める
人的資本経営は、一直線に進むものではなく、試行錯誤の連続です。重要なのは、失敗を恐れずに最初の一歩を踏み出し、従業員との対話を重ねながら、自社に合ったやり方を見つけ出していくことです。今回ご紹介した「壁」は、多くの企業が通る道です。これらをあらかじめ認識し、回避策を講じることで、貴社の取り組みはより着実なものとなるでしょう。
株式会社コトラでは、人的資本経営に関する深い知見と豊富な実績で、貴社が直面する「壁」を乗り越えるための解決策をご提案します。より具体的なご相談は、お気軽にお問い合わせください。